大槻伝蔵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大槻 伝蔵(おおつき でんぞう、1703年(元禄16年) - 1748年10月4日(寛延元年9月12日))は、加賀藩第6代藩主・前田吉徳に仕えた重臣。諱は朝元(とももと)
1723年、前田綱紀が隠居してその子・吉徳が藩主となった。この頃、加賀藩は綱紀の藩政改革で藩政が安定し、前田氏の家格も上昇したが、100万石以上の大藩となると何事も出費が著しく、そのために財政は悪化していた。吉徳は財政を再建するため、譜代の門閥層などを全て排除して茶坊主の大槻伝蔵を重用し、財政改革を行なうようになる。
伝蔵は財政改革のため、倹約令と新税の制定、米相場投機の改革などに尽力した。確かにこれにより、加賀藩の財政は完全とまではいかないがある程度は持ち直した。しかし、この功績によって伝蔵はいよいよ吉徳の寵愛を受けるようになり、ほぼ毎年にわたって吉徳から加増を受けるようになる。しかしそれも1745年、吉徳が病死するまでであった。伝蔵はいわゆる成り上がり者であったため、藩内の保守派や門閥層が伝蔵の出世に嫉妬。さらには厳しい倹約令によってそれまであった既得権を奪われるなど、保守派にとってはマイナス面が多かったことから、伝蔵は彼らに憎まれていた。そして1746年、保守派の讒訴によって越中国の五箇山に配流となる。
ところが1748年、突如としてある風聞が加賀藩に流れ出す。吉徳には愛妾・真如院との間に前田利和という息子がいたが、真如院が伝蔵と不義密通して産んだ子で、実は吉徳の子ではない。そして、伝蔵と真如院が利和を密かに藩主に擁立しようとしている、というものである。このため、伝蔵は自殺して果て、真如院らも厳しい処罰を受けることとなったのである。
しかし、伝蔵は吉徳が病に倒れたとき、寝食を忘れて吉徳の看病に当たっていたため、これには疑わしいところがある。恐らくは、保守派の陰謀だったのであろう。この一連の騒動は加賀騒動と呼ばれ、1754年まで続くこととなった。