前田綱紀
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前田 綱紀(まえだ つなのり、1643年12月26日(寛永20年11月16日)-1724年6月29日(享保9年5月9日))は、加賀藩の第4代藩主。第3代藩主・前田光高の長男。母は水戸藩・徳川氏の徳川頼房の娘(徳川家光の養女)・清泰院。元服後の名は綱利。後年、綱紀と改める。正室は保科正之の娘・松嶺院。子に前田吉徳(三男)、前田利章(五男)、節(浅野吉長正室)、豊(前田孝資室)、敬(池田吉泰正室)、直(二条吉忠室)。
[編集] 生涯
寛永20年(1643年)、光高の嫡男として生まれるが、このときに嫡男の誕生を聞いた光高は大いに喜んだと言われている。しかしその父は正保2年(1645年)、31歳の若さで早世してしまった。このため、綱紀はわずか3歳で第5代藩主となり、藩政は祖父の前田利常(第3代藩主で、寛永16年(1639年)に光高に家督を譲って小松に隠居していた)が取り仕切ることとなった。万治元年(1658年)、利常が死去すると、保科正之の後見のもとで藩政改革を行なうこととなる。
まず、新田開発や農業方面に着手し、十村制度を整備した。さらに、寛文の飢饉の際には生活困窮者を助けるための施設(当時これは「非人小屋」と呼ばれたが、金沢の人々は綱紀への敬意から「御小屋」と呼んでいた)を設置して後に授産施設も併置した。また、藩内で長寿を保っている者に対しては褒美として扶持米を与えたりした。さらに改作法を作り、前田家家中の職制(年寄役である加賀八家の制度)を定めた。対外政策においても隣国の福井藩との争いである「白山争論」に決着をつけ、綱紀の母が亡くなったときは、その冥福を祈って白山比め神社に名剣・「吉光」を奉納した(これは現在、国宝となっている)。
さらに綱紀自身が学問を好んだこともあって(武芸から建築など幅広く修めた彼を『超人』と評する者もいる。しかしながら、当時にあっては儒学を尊重する岳父保科正之からは苦言を呈されるなどした)、藩内に学問・文芸を奨励し、書物奉行を設けて工芸の標本、古書の多くを編纂、収集し、これらを東寺百合文書や百工比照に結実した。また江戸時代の著名な学者である木下順庵、室鳩巣、稲生若水らを招聘し、彼らの助けのもとで綱紀自らが編纂した百科事典・「桑華学苑」を記し、家臣団にも学問を奨励した。そして、宝生流能楽を加賀藩に導入している。
元禄2年(1689年)には5代将軍・徳川綱吉から御三家に準ずる待遇を与えられ、100万石を誇る最大の大藩として、その権威を頂点にまで高めた。また、荻生徂徠も綱紀の統治を評して「加賀侯非人小屋(御小屋)を設けしを以て、加賀に乞食なし。真に仁政と云ふべし」と述べている。
享保8年(1723年)、家督を三男の前田吉徳に譲って隠居し、翌年に82歳で大往生を遂げた。
綱紀のその治世は、徳川光圀や池田光政らと並んで江戸時代前期の名君の一人として讃えられている。また綱紀が長寿で、その藩政が80年の長きにわたったことも、加賀藩にとっては幸福であった。綱紀が名君となることができたのは、幼少の頃に祖父・利常の養育を受けたからだと言われている。
[編集] 官職位階履歴
※日付=明治5年12月2日までは旧暦
- 1645年(正保2)6月13日、加賀国金沢藩主を相続する。
- 1654年(承応3)1月12日、元服し、将軍徳川家綱より一字を賜り、綱利と名乗る。正四位下左近衛権少将兼加賀守に叙任。
- 1658年(万治元)閏12月27日、左近衛権中将に転任。加賀守如元。
- 1693年(元禄6)12月1日、参議に補任。
- 1707年(宝永4)12月28日、従三位昇叙。参議如元。
- 1723年(享保8)5月6日、隠居。6月15日、肥前守に遷任。
- 1909年(明治42)9月11日、贈従二位。
[編集] 関連事項
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