佐竹義真
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佐竹 義真(さたけ よしまさ、1728年9月7日(享保13年8月4日)-1753年9月17日(宝暦3年8月20日))は、出羽国久保田藩の第6代藩主。5代藩主佐竹義峯の養子だった佐竹義堅の長男。生母は野口氏。幼名は左吉、徳寿丸。通称は次郎。官位は従四位下侍従、左兵衛督。
寛保2年(1742年)4月19日祖父・義峯の嫡子になる。義峯は後継者に恵まれず、分家から父義堅を養子に迎えた。しかし、義堅も死去してしまったのである。延享元年(1744年)9月1日将軍徳川吉宗に御目見する。延享3年(1746年)12月18日従四位下侍従、左兵衛督に叙任する。寛延2年(1749年)10月16日祖父義峯の死去により、家督を相続する。同年12月18日侍従に任官する。宝暦3年(1753年)8月20日久保田城において死去、享年26。江戸時代の講談では、義真の死因を毒殺としている。
正室は前田吉徳の娘。子女はいなかった。秋田藩主佐竹家は、秋田新田藩主佐竹義道の長男・佐竹義明によって継承された。
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