中勢鉄道ボコ1形客車
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中勢鉄道ボコ1形客車(ちゅうせいてつどうぼこ-がたきゃくしゃ)は、中勢鉄道が保有した、旅客・荷物合造客車である。
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[編集] 概要
1921年12月の久居~大仰間開業に備え、同年10月に堺の梅鉢鉄工場でボコ1形1~4の4両が製造された。
[編集] 車体
車体長8.3mの軽便鉄道向け客車としては一般的な寸法の木造車体で、屋根は浅いシングルルーフ(一重屋根)、床下にトラス棒を備える。
但し、窓配置は極めて特徴的で、D5(1)d3(D:オープンデッキ、d:客用・荷物兼用扉、(1)戸袋窓)となっており、一端に車掌台を兼ねた手小荷物室が設けられていた。妻面は緩く曲面を描いており、新造時には貫通路が設けられていた。
[編集] 主要機器
台車は当時としては一般的な軸バネのない菱枠台車で、車輪径470mm、軸距889mmのものを装着していたが、これは後に車輪径610mm、軸距1,050mmのものへ交換されている[1]。
ブレーキは製造当時の通例通り、手用ブレーキのみが装備されていたが、三重線在籍の他形式と同様、1952年までに全車STE非常弁付き直通ブレーキを取り付け、貫通ブレーキが整備された。
[編集] 運用
新造後、鉄道線規格の大型車として主力となり、その後の形式称号変更でハニ1形1~4となったが、路線全廃に先立つ1938年に三重鉄道へ譲渡されて同社ホハ11形11~14となった。
この内、トップナンバーの11は木炭ガス発生装置を車端部に搭載する代燃動車のシハ81形へ改造されているが、残る3両は1944年2月の三重交通成立で改番され、サ321形321~323となった後もそのまま引き続き三重線で客車として使用された[2]。
その後、他形式に準じて貫通路の廃止と車端デッキへの引戸取り付けによる密閉式車体への改造が実施された。
更に1948年の三重線全線電化完成で不要となったナ141←シハ81が客車に戻されて続番のサ324とされ、再び4両が揃った。もっとも、1950年以降サ100・150形、サ360形と順次新型車が投入されるようになったため、これらと入れ替わりに廃車あるいは他社への譲渡が進み、最終的に1956年11月の324の廃車をもって三重交通では全廃となった。
[編集] 譲渡車
廃車となった本形式の内、サ321・322[3]の2両が尾小屋鉄道へ譲渡され、それぞれホハフ1型3・5となった。
これらは他の三重交通からの譲渡車と共に運用されたが、尾小屋へ計7両が譲渡された三重交通由来の客車中で唯一、ローラーベアリング付きの台車[4]を装着していた3[5]が車体更新を実施されて窓配置(1)D4D(1)で上段Hゴム支持、下段上昇式の側窓を備える半鋼製車体[6]となり、こちらは1977年の路線廃止まで主力車として重用された。
これに対し、ほぼ譲渡時の原型を保ったまま運用された5は、後半は列車運行本数の削減もあって、予備車として待機状態に置かれ続けることとなり、路線廃止時に解体処分されている。
路線廃止後、3は一旦江沼郡山中町の「山中県民の森」で静態保存されたが、その後小松市の粟津公園内にある石川県立小松児童会館へ譲渡され、整備の上で「なかよし鉄道」として1984年8月1日より運行されている。
[編集] 脚注
- ^ 車輪径470mmは中勢鉄道で軌道線への直通時の必要性から選択されたものと考えられるが、地方鉄道建設規定に抵触する数値であり、地方鉄道である三重線(後の近鉄湯の山線、内部線、八王子線を総称。1964年の湯の山線改軌まで用いられた)では望ましくなかった。
- ^ これらの内の1両がシハ81形の続番となるシハ82として代燃動車に改造された可能性が存在するが、三重交通成立時点での改番時に3両揃ってサ321~323とされていることから、仮に改造されていたとしても短期間で客車に戻されたと思われる。
- ^ 三重交通側記録では322ではなく、324を売却したことになっているが、尾小屋鉄道側での受け入れ記録は322となっており、譲渡時に車両の振り替えがあった可能性が推測されている。
- ^ 三重交通でも尾小屋鉄道でも客車用台車のローラーベアリング化改造は特に実施されておらず、これは低出力機関搭載でしかも代燃装置からのガスを燃料としていたが故に、通常の平軸受による過大な走行抵抗が許容できなかったシハ81→サ324が装着していた台車の可能性が高い。また、少なくとも最終期のサ324は平軸受台車を装着していたことが写真で確認されており、三重交通時代に同型車同士で広範囲に台車あるいは車両そのものの振り替えが行われていた可能性も考えられる。
- ^ 早い時期に車体を平妻構造で鋼板を外板に打ち付けたニセスチール車としていたが、腐朽が著しくなっていた。
- ^ 但しホハフ7・8と異なり、妻面は2枚窓構成とされた。