並木路子
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並木 路子(なみき みちこ、1921年9月30日 - 2001年4月7日)は、日本を代表する歌手。本名は南郷 庸子(なんごう つねこ(旧姓:小林))。浅草出身、台湾育ち。戦後の混乱期に歌った「リンゴの唄」が爆発的なヒットとなる。「リンゴの唄」は、歌謡史のみならず日本の歴史に残る歌となった。尚、芸名並木路子は、ミス・コロムビアの「並木の雨」と、歌詞に出てくる、並木の路に~の「路」に子を付けたもの。
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[編集] 経歴
- 1936年 松竹少女歌劇学校に入学
- 1937年 浅草国際劇場で初舞台
- 1945年 「そよかぜ」で映画初主演。「リンゴの唄」が爆発的ヒット
- 1946年 SKD(松竹歌劇団)を退団
- 1955年 東宝宣伝プロデューサーの南郷隼人と再婚。
- 1999年 夫と死別。以後体調を崩しがちになる。
- 2001年 4月7日、入浴中に心筋梗塞のため急死、享年79
[編集] 主な出演作品(映画)
[編集] 代表曲
- 「リンゴの唄」(1946年1月レコード発売、年内に12万5000枚を売り上げた)
- 「森の水車」
- 「バナナ娘」
- 「可愛いスイートピー」
- 「陽気なチンタ」
- 「ペンギン鳥の夢」(並木本人が最も気に入っていた持ち歌)
- 「陽気なカナリヤ娘」
- 「そよかぜ」
[編集] エピソード
- ステージデビューは、1937年(昭和12年)7月3日、国際劇場でオペレッタ「グリーンアルバム」での脇役。
- 歌手デビューは、1942年(昭和17年)1月、コロムビアレコード発売の「世界隣組」である。
- 1945年(昭和20年)3月9日、10日の東京大空襲で母親を亡くしている。彼女自身も、左目を痛め、後遺症となった。その他、次兄と父も戦争で、乗艦していた船がアメリカ軍の潜水艦に撃沈され死亡している。その上、立教大学の学生で初恋の人上田四郎氏も学徒出陣による特攻隊出撃で亡くしている。よく「親類を戦争ですべて亡くした」という記述を観る事があるが誤りで、姉と長兄は無事であった。
- 「リンゴの唄」が霧島昇とのデュエットになっているのは、たまたまスタジオに来ていた霧島が「この曲は絶対当たる」と思い、スタッフに頼みデュエットという形にしたためと、彼女が新人だったためである。その代わり、裏面の「そよかぜ」を霧島の独唱から並木とのデュエットにしたという話がある。戦前戦後を通してヒット曲の多い霧島は、この唄をテレビやステージで歌うことは殆ど無かった。そのため「リンゴの唄」が霧島とのデュエットであったことは、並木によるソロバージョンの方が最も良く流通している理由もあり、現在ではあまり知られていない。なお裏面の「そよかぜ」は霧島のお気に入りで、後年ステレオで複数回再録音をしている。
- 1995年、阪神・淡路大震災の最大の被災地である神戸市長田区への慰問に訪れた際には、当時の新聞紙面には「焼け跡に再び『リンゴの唄』が流れた」という見出しで紹介された。奇しくも戦後50年の年である。この年には山野さと子(山野智子名義であった)による「リンゴの唄」のカバーシングルが発売されている(後に二人でステージにてデュエットしている)。
- 「リンゴの唄」のあまりの大ヒットゆえに他の曲がかすんでしまい、「一発屋の元祖」のように言われることもある。
- その「リンゴの唄」は、歌謡曲の人気投票では意外にふるわず、「青い山脈」などにトップを譲った。理由をある文筆家が評していわく「あまりにも焼け跡のイメージと直結しすぎるのではないか」と。
- 晩年に至るまで活発に活動し、亡くなった次の日もステージの仕事が入っていた。
- 「リンゴの唄」は大事な財産と公言していたが、リンゴ自体は好きではなかった。
- コロムビアの所属歌手からは小姐(なお大姐は二葉あき子)と呼ばれ、慕われていた。
- 二葉あき子の大ファンで、レパートリーは全部歌えると生前語っていた。また二葉も「私が死んだら、私の唄を歌い継いでね」というほど公私共に仲も良かった。