田端義夫
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田端義夫(たばた よしお、1919年1月1日 - )は第二次世界大戦前から現役歌手として活躍し続けている日本の演歌歌手。社団法人日本歌手協会名誉会長。愛称はバタヤン。水平に構えた年代物のエレキギターと威勢のよい挨拶がトレードマークである。
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[編集] 経歴
大正8年(1919年)三重県松阪市生まれ。3歳の時に父を亡くし、大正14年(1925年)に一家とともに大阪に出て行く。小学校3年の半ばで中退。赤貧のため、慢性的な栄養失調のためにトラコーマにかかり徐々に右目の視力を失う。名古屋の薬屋やパン屋、鉄工所などで丁稚奉公。その間に見たディック・ミネのギターを持ちながら歌うステージに感動し、自ら音の出ないギターを作っては河原で歌い、次第に流行歌の世界に傾倒していく。
昭和13年(1938年)、ポリドールレコードの新人歌手北廉太郎の宣伝のため「伊豆の故郷」を課題曲とした新愛知新聞社主催のアマチュア歌謡コンクールに出場することを姉から勧められ、優勝する。ポリドールの勧めで上京し、鈴木幾三郎社長宅の書生となる。その時に知り合った同じ鈴木宅の書生が、「オースッ!」と挨拶することにヒントを得て、後にステージに出演する際に、田端義夫のトレードマークとも言うべき威勢のいい挨拶が生まれている。昭和14年、同じく新進作曲家の倉若晴生の手による「島の船唄」でデビュー。当時は同じ会社の先輩に倣って、眼鏡をかけ、いがぐり頭の新人歌手として登場している。デビュー曲が当時レコード販売会社の組合で制定していた《ぐらも・くらぶ賞》を受賞するという快挙に恵まれ、その後も「里恋峠」「大利根月夜」「別れ船」「梅と兵隊」とヒットを続け、同じ会社のスター東海林太郎、上原敏と並ぶヒット歌手の地位を築いたのである。昭和16年、日本橋きみ栄らとともに中国大陸に戦地慰問にも赴くが、その後は主に国内の軍需工場や基地を中心に終戦まで慰問活動を続けた。
終戦後、レコード販売を止めていたポリドールを辞し、昭和21年(1946年)にテイチクに移籍。「かえり船」のヒットを出す。戦前の流れを組むマドロス歌謡で人気を博し、「かよい船」「たより船」「玄海ブルース」と昭和20年代を代表するスター歌手として岡晴夫、近江俊郎らとともに戦後三羽烏と呼ばれた。スクリーンにおける活躍は早く、昭和15年(1930年)に松竹映画「弥次喜多六十四州唄栗毛」に旅人役として出演したのを皮切りに、戦後は、大映映画「淑女とサーカス」「肉体の門」、新東宝映画「底抜け青春音頭」「アジャパー天国」など、喜劇映画を中心に多くの出演作品を残している。
昭和30年頃からはヒットが出ずに低迷の時期が続いた。昭和37年(1962年)、ポリドールから13年前に波平暁夫の歌で発売されたものの奄美大島のみで歌い続けられていた「島育ち」を、会社の反対を押し切ってレコーディング。田端の地道な活動が功を奏し、「島育ち」は40万枚を超える[1]大ヒット。再びカムバックを果たし、昭和38年にはNHK紅白歌合戦に初出場した。「新曲を出し続けることが、現役歌手の証し」と、その後も精力的に歌手活動を続け、「十九の春」「昭和三代記」「百年の愛」と平成になってからも新曲を出し続けた。一方、公演に訪れたアメリカ・ラスベガスのスロットで大金を掴むという話題も振りまいた。平成7年には林伊佐緒に代わり、日本歌手協会の5代目会長に就任。平成16年から名誉会長の座にある。
1997年には、ロック・バンドソウル・フラワー・ユニオンの別動チンドン楽団ソウル・フラワー・モノノケ・サミットと、宮崎県の高千穂でジョイント・コンサートを行なっている。
「バタヤン」の愛称で親しまれている田端義夫は、2008年の現在もなお現役歌手として活動を続けている。
[編集] 代表曲
- 「島の船唄」(昭和13年)
- 「大利根月夜」(昭和14年)
- 「里恋峠」(昭和14年)
- 「月下の歩哨戦」(昭和14年)
- 「別れ船」(昭和15年)
- 「旅出の唄」(昭和15年)
- 「梅と兵隊」(昭和16年)
- 「石狩の春」(昭和16年)
- 「岬のひととき」(昭和16年)
- 「木曽の山唄」(昭和18年)
- 「母のたより」(昭和18年)
- 「かえり船」(昭和21年)
- 「ズンドコ節(街の伊達男)」(昭和22年)
- 「玄海ブルース」(昭和24年)
- 「涙の夜曲」(昭和24年)
- 「たより船」(昭和25年)
- 「夜船の女」(昭和25年)
- 「ロマンス航路」(昭和25年)
- 「ふるさとの灯台」(昭和27年)
- 「利根の火祭り」(昭和27年)
- 「浅間の鴉」(昭和28年)
- 「舞妓物語」(昭和29年)
- 「おちょろ船」(昭和29年)
- 「君待船」(昭和29年)
- 「親子船唄」(昭和30年)
- 「別れの浜千鳥」(昭和32年)
- 「島育ち」(昭和37年)
- 「十九の春」(昭和50年)
[編集] エピソードなど
- かつて、地方を巡業する際に、大型バスを改造した専用の車両で移動していたことがある。1955年にいすゞ自動車が納入したもので、キッチン、トイレ、寝室、応接室などを備えた豪華なものであった。バスに水回りの装備をするのは当時はまだ珍しく、トイレ付となると、一般のバスでは1960年代以降の登場であり、画期的であったともいえる(参考:バスラマ・インターナショナル36号)。
- 1979年、旅行でラスベガスに行った時にスロットで29万ドル(6400万)を当て、日米で話題になったことがある。しかし大部分は税金などで持っていかれ、手元にはさほど残らなかったと本人談。
- 「歌と女の人生」と立川談志などから揶揄されるほどの好色で知られ、70を過ぎてなお、「まだまだ(夜も)現役やで」と語っている(現在も「現役」か不明)。ちなみに4度結婚(3度離婚)しており、次男は61歳の時の子である。
- 田端のトレードマークの一つでもある、登場時の掛け声(「オース!」)は戦後で客席に向かって何となくやってみたところ、客も「オース」と答えてくれたことから、それ以後ステージに出れば言うようになった。昭和20年代後半、美空ひばりとの公演の際には、美空の母から「オースはやめて下さいよ。(田端が)お嬢(美空ひばり)より拍手が多いのはオースのせいです。次のステージはオース無しでお願いします」と懇願されたことがある。
- 「同じキーで歌うことで声に張りが出る、苦しいからとキーを下げたら歌が沈んでしまうし、歌自体が別物になる。同じキーで歌えなくなったら歌手は辞める」という強い信念から、デビューから70年近く経つ現在も、すべての持ち歌のキーを下げず歌っている。2オクターブの音域を維持するため、1日1時間の発声練習は欠かさず行い、酒・タバコも嗜まない。
- 1984年、ヘルペスに罹った際に行った神経ブロックの治療に失敗し、一時下半身不随になったが、リハビリで奇跡的に回復した。ただし現在も後遺症の神経症による痛みはあるという。
[編集] 脚注
- ^ 長田暁二『歌謡曲おもしろこぼれ話』社会思想社、2002年、170-171頁。ISBN 4390116495