両替商
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両替商(りょうがえしょう)とは、両替および金融を主な業務とする商店のことである。この両替商は室町時代を発端として江戸時代に確立し、小判、丁銀および銭貨を手数料を取って両替した商店から始まり、明治時代以降は両替商は銀行として金融業務を行うようになり、銀行を両替商という場合もある。現代では主に、空港などで外貨の両替を行う窓口を指す。
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[編集] 江戸時代の両替商
両替という言葉は、一両小判を、丁銀、豆板銀すなわち秤量銀貨に、また銭貨に換(替)えたことに由来する。
[編集] 三貨制度の成立
室町時代頃から、次第に市場経済が発展し、宋銭など中国からの渡来銭が流通するようになった。一般の小売は銭遣いが中心であり、銭一枚は一文という単位であった。しかし、数百年の流通により銭の中には割れ、欠け、磨耗などの著しいものや、国内で渡来銭を鋳写しすることにより鋳造された質の悪い銭が流通の大半を占めるようになり、これらは鐚銭と呼ばれるようになった。これに対し明から新たに輸入された永楽通寳は良銭として扱われ、撰銭という慣行が始まった。
西日本を中心に銀山から山出しされた灰吹銀に極印を打ち、その量目(質量)に応じて実質価値が定まる秤量銀貨が大口取引に利用されるようになり、小額取引にはこの極印銀を切遣いした切銀が使用されるようになった。これは明との生糸貿易が主に秤量銀貨で決済されたことも関係している。この灰吹銀をたたき延ばし棒状にして極印を打ったものが古丁銀と呼ばれるものである。
奥州および甲州は金山が多く位置し、砂金が量目に応じて大口取引に利用されるようになり、やがて砂金を吹きまろめて(鎔融して)竹流金とし、またこれを槌でたたき延ばした判金として用いられるようになった。これが大判および小判の始まりである。
関が原の合戦に勝利した徳川家康は全国統一への一歩として貨幣制度の整備に着手し、慶長6年(1601年)に金座および銀座を設立し、慶長小判および慶長丁銀の鋳造を命じた。これが慶長の幣制の始まりである。これに遅れること35年後の徳川家光の時代、寛永13年(1636年)に幕府が一文銅銭、寛永通寳を本格的に鋳造に乗り出すことになった。かくして三貨制度(小判、丁銀、銭貨)が確立することになるが、これは既存の貨幣の流通形態を踏襲するものであった。
これより前の慶長14年(1609年)に幕府は三貨の公定相場として「金一両=銀五十匁=永一貫文=鐚四貫文」と定め、後の元禄13年(1700年)に「金一両=銀六十匁=銭四貫文」と改訂し、貢納金などに対してはこの換算率が用いられたが、一般の商取引では市場経済に委ね、金一両、銀一匁および銭一文は互いに変動相場で取引されるのが実態であった。このように国内に三種類の通貨が同時に流通することとなり、これらの取引を円滑に行うためには、これらの通貨間の両替が必要となる。そこで1~2%程度の手数料を徴収して両替を行う商売が成立することになる。このように同一国内で金貨、銀貨、および銅貨がすべて無制限通用を認められた。当時、本位貨幣という概念は無かったものの、金銀銅の三貨もいずれもが事実上の本位貨幣としての価値をもって流通し、それぞれが変動相場で取引されるという世界史上類を見ない貨幣制度であった。
[編集] 両替商の株組織
両替商はやがて小判および丁銀の金銀両替および、為替、預金、貸付業務を行う本両替と、専ら小判、丁銀、および銭貨の両替を行う三組両替、銭貨の売買を行う脇両替に分化していった。本両替商は江戸では本両替仲間、大坂では十人両替仲間を形成し、相場立会いなどについて協定した。両替商は大坂に本店を置き、江戸に支店を置くことが多かった。
[編集] 両替天秤
丁銀および豆板銀すなわち秤量銀貨は、その量目に応じて価値が定められるものであり、取引の度に秤量が必要であった。豆板銀による小額取引には小型の天秤である銀秤(ぎんばかり)が用いられたが、大口取引に対しては丁銀および豆板銀を組み合わせて、銀一枚すなわち43匁あるいは500匁毎に包封した包銀を作成し、これには大型の針口天秤(両替天秤)が用いられた。また小判および丁銀の品位の鑑定も行い、極印を打つことも行われ、これらの鋳造貨幣には金座および銀座以外の極印が多数打たれたものが見受けられ、両替商の信用を下に貨幣が流通した当時の状況が窺える。
この両替に用いられる天秤は京都の秤座(はかりざ)で製作されたもののみ使用が許された。また分銅については彫金を本職とする、後藤四郎兵衛家のみ製作が許され、これ以外のものの製作および使用は不正を防止するため厳禁とされた。そのため量目の単位としての匁は江戸時代を通じて均質性が維持されている。また豊臣家から徳川家に至るまでの大判の製作を一貫して請け負った後藤庄三郎家は、後藤四郎兵衛家の分家にあたる。
江戸時代中期の三貨制度(元文~明和年間) | ||||||||||||||||||||||
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[編集] 日本国外における両替商
同じ様な両替商は、日本以外の国々にも存在した。むしろ、陸上・海上交通によって自国・外国間の貨幣の流入・流出が盛んであったと言っても良い。
[編集] ヨーロッパ
古代地中海世界ではフェニキア人がその役目を担い、続いて古代ギリシア・古代ローマの都市において両替商が出現して外国通貨と自国通貨の両替のみならず振替業務や貸付業務も行った。中世期に入ると、ヨーロッパの商業は衰退を見せるが、東方からの貨幣流入は継続され、更に10世紀に遠隔地商業網が再建されると再び両替商の役割が大きくなった。フランスでは1141年にパリの両替商・金銀細工師をグラン・ポン橋の周辺に集めてそれ以外での営業を禁止して掌握を図ろうとした。このため、この橋はポン・ド・シャンジュ(両替橋)と呼ばれるようになった。同じ頃、北イタリアの都市国家は独自貨幣を発行するようになり、都市間の貨幣の交換を行う両替商が生まれた。彼らは都市の広場にバンコ(banco)と呼ばれる台を設置してその上で貨幣の量目を計ったり、交換業務を行った。後に「銀行」を意味するバンク(bank)という言葉はバンコに由来すると言われている。イタリアの両替商はイングランド・フランドル・シャンパーニュなどヨーロッパ経済の先進地帯や主要都市に進出をして、十分の一税の徴税・輸送業務や為替業務をも合わせて行い、後の銀行業の母体となった。南ドイツのフッガー家や北イタリアのメディチ家は、両替商から銀行家へと発展した典型的な例である。中世後期になると、フランドル・カタロニア・スイスにも両替商が勃興し、やがて過酷な生存競争を生き延びた業者は銀行業へと転進することとなる。大航海時代になると金融の中心は経済の変動に追いつけずに衰退しつつあった北イタリアから、次第にイングランドの首都ロンドンへと移るようになる。以後、ロンドンは20世紀まで世界経済及び金融の中心的地位を占めることになった。
なお、ヨーロッパでは聖マルコが両替商の守護聖人として彼らの間で崇敬を集めていたとされている。
[編集] イスラム世界
イスラム帝国の拡大に従って、従来からのヨーロッパとアジアを結ぶ中継貿易の役目に加えて、地域内の交易も盛んになり、バグダート・バスラ・アレクサンドリアなどを結ぶ商業網が成立した。ディーナール金貨・ディルハム銀貨が代表的な貨幣であったが、各地から様々な地金や秤量貨幣などが流入して通貨として用いられた。こうした通貨間の交換を図るために9世紀にはサッラーフ(şarrāf)と呼ばれる両替商が成立し、後に砕銀・粒銀などの秤量貨幣をまとめて封印を施して、一定の貨幣価値をもって流通させたり、手形を扱ったりもするようになった。また、地方から租税として集められた貨幣や地金を公式の通貨に換金して政府に納入するジャフハズ(jahbadh)と呼ばれる御用業者もあった。
[編集] 中国
中国では早くから銅銭による貨幣統一政策が採られていたが、国家の分裂や慢性的な銅銭不足によって金銀や絹などの軽貨が代用貨幣として用いられていた。唐から宋にかけて、金銀鋪・兌房と呼ばれる両替商が成立した。金銀鋪は元は金細工・銀細工などの製造販売を手がけていたが、後に顧客からの依頼を受けて金銀の鑑定や保管業務なども引き受けて両替・預金業務も行うようになった。更に宋代になると、飛銭・交子の発行引受なども行った。明以後になると銀の流通が付録行われるようになり、銀と銭の交換を専門に行う銭荘・銀楼などと呼ばれる両替商も出現するようになった。
[編集] 銀行
現在の日本の銀行の多くは江戸時代の両替商が前身である。銀行の地図記号は江戸時代の両替商で用いられた分銅の形に由来する。詳しくは「銀行」を参照されたい。
[編集] 外貨両替を扱う両替商
空港などにおいて、主に入国者および出国者を対象に、2国間の通貨を手数料を徴収して、為替相場に応じて外貨両替を行う窓口または店舗を両替商と呼ぶ。日本国内では以前、外国為替および外貨両替を扱うことができるのは外国為替公認銀行に限られていたが、平成10年(1998年)4月の「外国為替及び外国貿易法」の改正により規制が緩和され、一般企業でも外国為替および外貨両替を扱うことができるようになった。
日本で外貨両替を扱っているのは、主に銀行および空港などの両替窓口であるが、海外ではこれに加えて大都市および観光地などでも両替商を多く見かけるのが一般的である。国によっては入国時に公認両替商で両替を行い両替証明書を発行してもらわないと、出国時に余剰の貨幣を再両替することができないこともある。
[編集] 参考文献
- 『日本の貨幣』 小葉田淳、至文堂、1958年
- 『江戸の貨幣物語』 三上隆三、東洋経済新聞社、1996年
- 『日本の貨幣の歴史』 滝沢武雄、吉川弘文館、1996年
- 『日本史小百科「貨幣」』 瀧澤武雄,西脇康、東京堂出版、1999年
- 『歴史学事典 1 交換と消費』(「両替商」 今井修平) 尾形勇 他編、弘文堂、1994年