上杉房定
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上杉 房定(うえすぎ ふささだ、永享5年(1433年)? - 明応2年10月17日(1494年11月14日))は、室町時代・戦国時代の人物。越後の守護大名。上杉清方の子。上杉房朝の養子。上杉定昌、上杉顕定、上杉房能の父。越後守。民部少輔。相模守。法号は常泰。伊達尚宗正室の父は上杉定実では無く、房定であると言う説もある。
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[編集] 越後守護就任と国内の掌握
1449年、養父の房朝が没し、越後の守護職を継承した。翌年、越後入りする。房朝の時代までは歴代の越後守護は在京して政務にあたっていたが、反抗的であった守護代長尾邦景に対抗するためと思われる。折りしも永享の乱後の関東地方の混乱鎮圧のために房定は鎌倉公方を復活させて前公方足利持氏の遺子の永寿王丸(後の足利成氏)の関東復帰を幕府に運動を始めた。長尾邦景は永寿王丸復帰によって却って混乱が深まると諫言したが、これを守護である自分を軽んじるものとして受け取った房定は邦景を捕えて自害させ、これに対して反乱を起こした邦景の嫡男実景を攻め滅ぼした。その後、長尾氏庶流で自身の側近の長尾頼景・重景を守護代に取り立て政務にあたらせた。
[編集] 享徳の乱と房定
永寿王丸の関東復帰を実現させたものの、結局は長尾邦景の危惧は的中し、元服した足利成氏(永寿王丸)が上杉氏討伐を計画した事をきっかけに享徳の乱が勃発する。このため、房定は上杉氏の一門として成氏と敵対した。康正元年(1455年)に関東に入った房定は以後、16年にわたって関東に滞在して各地で古河城に逃れて「古河公方」と名乗った成氏方の諸将との戦いに費やした。
文正元年(1466年)関東管領の上杉房顕(山内上杉家)が子供を遺さずに陣没した際には、将軍足利義政の命を受けた長尾景信の求めにより実子の龍若(後の顕定)を養子に送り、関東管領に就任させている。しかし、文明元年(1469年)に守護代として留守を守り続けた長尾頼景が没してのを機に越後の国内に不安を覚えたため、文明3年(1471年)に嫡男・定昌を上野国白井城に留めて自身は越後に帰還した。以後は越後の国政に専念する一方で上杉氏・幕府と古河公方との和睦の成立にも尽力し、文明12年(1481年)から始まった両者の和平交渉の仲介にあたった。一方で、文明9年(1477年)には信濃の半国守護にも任命されており、幕府からの信任の篤さが伺える。
[編集] 長享の乱と房定
山内上杉家を継いだ顕定が扇谷上杉家の台頭を食い止めようとしてこれと対立すると、房定は将軍足利義尚に求めて、文明18年(長享元年・1487年)自らの相模守への就任を実現させ、房定が謝礼として越後の布30端を義尚に献上している。相模は扇谷上杉家が守護を務めている国であり、事実上同家より国主の地位を剥奪する事を宣言したものであった。顕定は同年に扇谷上杉家の上杉定正に宣戦して長享の乱が始まった。当然、房定は顕定を全面的に支援して長享2年(1488年)には自ら関東に出陣している。当初は主要な戦いで3連敗して定正の優勢が言われた中で顕定が持ちこたえる事が出来たのは父・房定による支援が存在したからであり、これが定正死後の顕定の反攻につながる事になった。
[編集] 房定の晩年
とはいえ、越後国内では長尾実景の滅亡後には大きな戦乱が起きる事もなく、応仁の乱で荒廃した京都から逃れた飛鳥井雅康や万里集九、聖護院道興などの一流の教養人として知られた公家・僧侶が越後に下向するようになった。房定はこれをよく保護したため、越後の文化発展にも貢献するところとなった。
延徳3年(1491年)、管領細川政元が秘かに越後を訪問した。表向きは奥州に修験道の修行に行くという政元を房定が説得して京都に帰らせた事になっているが、近年では将軍足利義材の廃立計画について房定及びその子・顕定の協力を求めに来たのではないかとも言われている。
晩年の明応元年(1493年)には、揚北衆の本庄房長・黒川頼実が反乱を起こすが、長尾能景(重景の子)の活躍で鎮圧された。明応2年(1494年)死去、嫡男・定昌に先立たれていたため、家督は末子の房能が継承した。