上坂太一郎
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上坂 太一郎 Taichiro Kamisaka |
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基本情報 | |
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出身地 | 日本愛知県名古屋市守山区 |
生年月日 | 1977年4月14日(31歳) |
身長 体重 |
175cm 77kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
守備位置 | 二塁手、外野手 |
プロ入り | 1999年 5位 |
初出場 | 2000年9月13日 |
最終出場 | 2006年7月2日 |
経歴 | |
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上坂 太一郎(かみさか たいちろう、1977年4月14日 - )は、阪神タイガースに所属していた元プロ野球選手(内野手)。
目次 |
[編集] 経歴
享栄高では主将で甲子園に出場。社会人の王子製紙春日井では5番打者として活躍し都市対抗出場。1999年のドラフト5位で阪神タイガースに入団。当時は外野手としての登録で、スポーツ紙に「曽我部二世」と評された。
1年目の2000年9月13日対巨人戦に1番レフトでスタメン出場し、プロ初安打を含む猛打賞、さらには二盗・三盗を連続で決め、鮮烈なデビューを飾った。特に連続盗塁については、当時の野村克也監督が「阪神に来て、初めて野球をした気分だ」というコメントを残している。この日の相手先発がダレル・メイだったため、以後メイや左投手が先発のときは坪井を外して上坂をスタメンで起用する光景がしばしば見られた。秋季キャンプでは和田豊の後釜に据えられ、セカンドの練習及びスイッチヒッター挑戦に励んだ。
2年目の2001年にはF1セブンの一員として89試合に出場。怪我で戦列離脱した時期もあったがセカンドのレギュラーを張り、濱中治・赤星憲広と3人で平成の新少年隊と呼ばれた。この年の6月29日対ヤクルト戦(甲子園)延長10回、石井弘から、この日が66歳の誕生日だった野村監督を祝うプロ初サヨナラホームランを放った。また、同年7月17日対巨人戦(甲子園)で条辺剛から自身2度目のサヨナラヒットを放ち、球団史上初となる対巨人戦3試合連続サヨナラ勝ちの立役者となった。左投手を得意としており、この年の本塁打6本のうち5本が左投手から放ったものである。オフに結婚式を挙げたが、同日同じホテルで阪神首脳と監督就任の交渉をしていた星野仙一が式に乱入して、急遽スピーチを行った。しかし、その内容は「レギュラーの確約はない」というものだった。後日阪神監督となった星野は上坂をカミタロウと呼んでいた。
翌2002年、オープン戦で田淵コーチは当初二番に上坂を予定していたが、星野監督が「今岡を使ってみな」と言い、セカンドに今岡を出してみたところ固め打ちをし、そのまま二塁に定着。以後、上坂に先発のチャンスはなかった。それ以降も各ポジションでの競争に敗れ、次第に一軍から縁遠くなっていった。 俊足ながらパンチ力のあるパワーヒッターという点が他の小兵選手に比べ抜きん出ているところで二軍にいるような選手ではないのは誰もが認めるところではあったが「もの凄いファインプレーをしたかと思うと信じられないチョンボをやらかすのでベンチとしては非常に使いにくい(広澤克実評)」ため、守備・走塁のスペシャリストとして一軍に残る道もなかった。
2003年は開幕こそ一軍だったがあまり試合には出れなかった。しかし、和田豊コーチの野球日記「虎の意地」で「寝癖がひどい」「ミーティングに常にに遅刻してくる」「眠いのを隠すために雨なのにサングラスをしていた」「目を見て返事していたのに後になって聞き直してきた」と毎回のようにネタにされていた。一度だけ日記の後ろにあるコラム「今日のひとりごと」が「今日の太一郎」になっていたことがあった。[1]。
チームが18年ぶりに優勝した2003年の6月9日、兵庫県西宮市内で制限速度を 83km/h オーバーする 123km/h で走行。それをオービスで撮影された。さらに7月18日にも 58km/h オーバーの 98km/h で同様にオービスに撮影され、警察からの再三の出頭要請に気づかず結果的に無視した形となり、球団にも報告していなかったことが判明し問題となった。上坂本人は「前後してもらい事故として追突されたことの手続き書類と勘違いして確認を怠った」と釈明していた。翌2004年5月には有罪判決を受け、球団からは出場停止と罰金100万円の制裁を受けた。このシーズンは17試合の出場に留まったが、オフの契約更改の場では球団からの300万円減(2000万円から1700万円)の年俸提示を「事件と野球は別」として保留。常識のなさで球団のみならずファンやマスコミからも批判を浴びた。
最後の一軍出場となった2006年7月2日の東京ドームでの巨人戦で、8番サードでスタメン出場するも2打数無安打、2失策と振るわず、「上坂に(最後の)チャンスをやりたかった」という岡田監督の起用に応えることが出来ずに終わった。翌2007年の10月27日に戦力外通告を受けた。12球団合同トライアウトを受験するも獲得に乗り出す球団はなく、現役続行を断念。飲食店経営を始めるかたわら、母校・享栄高の野球部コーチに就任した。[2]。
[編集] 記録・タイトル
[編集] 年度別通算成績
年 | 試合 | 打数 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 打率 |
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2000 | 21 | 72 | 18 | 2 | 1 | 0 | 2 | 6 | .250 |
2001 | 89 | 300 | 76 | 9 | 4 | 6 | 24 | 7 | .253 |
2002 | 74 | 139 | 36 | 7 | 1 | 1 | 9 | 1 | .259 |
2003 | 16 | 21 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .143 |
2004 | 17 | 22 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | .273 |
2005 | 25 | 13 | 2 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | .154 |
2006 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 |
2007 | 1軍出場なし | ||||||||
通算 | 243 | 569 | 141 | 19 | 6 | 7 | 37 | 15 | .248 |
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
阪神タイガース 1999年ドラフト指名選手 |
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1位:的場寛一 / 2位:吉野誠 / 3位:岡本浩二 / 4位:新井亮司 / 5位:上坂太一郎 6位:窪田淳 / 7位:松田匡史 / 8位:高山智行 |