三韓征伐
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三韓征伐(さんかんせいばつ)とは、『日本書紀』に記述が残る、神功皇后が行ったとされる新羅出兵をさす。新羅が降伏した後、三韓の残り二国(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされるためこの名で呼ばれるが、新羅征伐と言う場合もある。
[編集] 歴史学上の解釈
[編集] 戦前の解釈
『日本書紀』成立後、「三韓征伐」によって朝鮮は日本の属国に入ったとされ、この見解を正当とみる人は朝鮮を「日本の属国」もしくは「元日本の属国」として扱う事が多い。豊臣秀吉による文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の大義名分(朝鮮は三韓征伐以来、日本の属国であり支配する権利がある)として積極的に用いられた。江戸時代に入ると国学研究の中で三韓征伐、およびそれを大義名分とした文禄・慶長の役を肯定的にとらえる論説(山鹿素行『武家事紀』など)が広まるようになった。
この傾向は明治時代以降も続き、征韓論が台頭したとき、そして実際に大韓帝国を併合する際(韓国併合)や、日韓同祖論が生まれて外地における同化政策(皇民化教育など)が進められるようになったときも、その思想的背景の一つとなった。また、皇国史観の下、記紀の記述に疑義を呈することはタブー視され、神功皇后の存在も史実とされた。
[編集] 戦後の解釈
戦後史学では、戦前の皇国史観から解放され記紀への実証的研究が進んだ結果、学界の主流では「三韓征伐」に関する記述は具体的ではなく神話的誇張が多く神功皇后の実在を実証できないとされおり、4世紀の倭の朝鮮半島進出は、広開土王碑・七支刀など、全く別の同時代史料によって論じられている。
一時期、現在の広開土王碑碑文は大日本帝国陸軍が大日本帝国の半島進出を正当化するため不都合な歴史を改竄したものであるという説を唱える向きがあったが(李進煕和光大名誉教授説)、現在ではほぼ否定されている。(好太王碑 最古の拓本発見 旧日本陸軍入手のものと一致 「改竄論争に終止符」読売新聞 2006年4月12日12面)
また、4世紀後期ごろから倭国(ヤマト王権)が朝鮮半島南部へ進出したことを示す文献史料・考古史料は少なからず残されている。また、広開土王碑文も、通説に従って読む限り、碑文にある、倭が朝鮮半島に進出して百済や新羅を臣従させ、高句麗と激しく戦っていたことも「功績を大きく見せるための誇張はあってもおおむね史実を反映したもの」とする評価が定着した。また中国史書(『宋書』など)の記述について、倭国が朝鮮半島南部の小国家群に対して何らかの影響力を持っていた傍証とする見解があり、朝鮮側の史書『三国史記』からも度重なる倭の侵攻や新羅や百済が倭に王子を人質に差し出していたことが知られる。(倭・倭人関連の朝鮮文献)また、韓国南部の旧伽耶(任那)地域の前方後円墳の発掘で倭国産と見られる遺物が出てきたこともこの説の証拠として提示されている。
これらのことから、「三韓征伐」説話を根拠として全く用いることがなくとも、4世紀後半以降の倭の朝鮮半島進出自体は歴史的事実として立証できるとするのが古代史学界の主流である。ただし広開土王碑や、『三国史記』・『三国遺事』といった、朝鮮側の資料(『日本書紀』に比べ該当時期の編年の狂いが少なく(広開土王碑と『三国史記』の干支年が1年異なる程度)、この頃の朝鮮では一般に文字による記録が残されたことをうかがわせる)には、「オキナガナラシヒメあるいは倭女王の来襲」などという記述は全く見られないことから、記紀の記す「神功皇后の三韓征伐」そのものは疑わしいであろう。記紀には広開土王碑に見られるような高句麗などとの激しい戦闘を伝えるものが全くないことから、この頃の日本は事実を具体的に文字による記録で残すことをしなかったと見られる(この頃の『日本書紀』の対外的な記事には、推定干支を二運120年繰り下げる計算をすれば正しいと思われる記事があるが、いずれも百済三書と呼ばれる朝鮮系の資料を基にしたと見られ、日本の固有の伝承は元来干支記事などもなく、史実の核は非常に乏しいと考えられる)。現在の学界では、三韓征伐説話は、はるか後の時代になって、新羅の日本への服従を正当化するために(『続日本紀』には、来新羅使の前で神功皇后説話を聞かせて立腹させたという記事もある)、かつて日本は朝鮮半島で闘ったことがあるというわずかな記憶と、女帝斉明天皇が新羅遠征のために、筑紫朝倉宮まで行幸した故事を元に、創作されたとする仮説が唱えられている。(上田正昭、直木孝次郎説)。