三船プロダクション
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三船プロダクション(みふね-) は、1962年に映画スター三船敏郎が設立した、日本の芸能事務所及び制作プロダクションである。1966年には東京都世田谷区と調布市にまたがる敷地に時代劇も撮影できるオープンセットのある撮影所を建設。東京で唯一時代劇が撮れるスタジオと言われ、セットを建てられるほどのスタジオが三つと、通り、川端、長屋、そしてバス通りを渡ったところに、道場を含むオープンセット。更に、殆どのスタッフが専属で仕事をしており、大手の映画会社に次ぐ規模であった。
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[編集] 略歴
設立にあたり東宝の重鎮・森岩雄、藤本真澄と川喜多長政が取締役に名を連ね、運営には田中友幸の尽力があり彼らを後ろ盾とした[1]。1960年代は、主に東宝と提携して多くの映画を製作し、中でも中村錦之助、石原裕次郎らとの共演が話題になった『風林火山』(1969年)は大ヒットした。1970年代に入り、映画産業が斜陽化してからは、映画制作から撤退してテレビで時代劇ドラマを制作した。
芸能プロダクションとしても活動し、竜雷太、多岐川裕美、勝野洋、竹下景子らのスターを多く抱えていたが、1979年に内紛騒動が勃発し、東宝時代から付き添ってきた田中寿一が上記の俳優らを引き連れて、半ば強引に三船プロから独立、田中プロモーション(同プロはその後分裂し、現在アクターズプロモーションがその流れを汲んでいる)を設立した。三船プロに残留した俳優は伊豆肇、夏木陽介、かたせ梨乃ら、少数に留まった。この分裂劇は司法へともつれ込んだが、田中からの謝罪を三船が受け入れることで、和解した。
分裂で大打撃を受けた三船は軌道修正を図るべく、1981年には三船芸術学院を設け、俳優やスタッフの育成に力を注ぐも、内紛騒動で出来た穴を埋めることはできず、1984年には撮影所が閉鎖に追い込まれ、事業縮小を余儀なくされた。
三船亡き後は長男で俳優の三船史郎が取締役を継ぎ、現在に至る。
[編集] 所属俳優
- 大島光幸
- 柿木恵至
- 三船力也
[編集] 作品
[編集] 映画
- 『五十万人の遺産』(1963年、監督:三船敏郎)
- 『侍』(1965年、監督:岡本喜八)
- 『血と砂』(1965年、監督:岡本喜八)
- 『怒濤一万浬』(1966年、監督:福田純)
- 『奇巌城の冒険』(1966年、監督:谷口千吉)
- 『上意討ち 拝領妻始末』(1965年、監督:小林正樹)
- 『黒部の太陽』(1968年、監督:熊井啓、※石原プロモーションと共同制作)
- 『赤毛』(1969年、監督:岡本喜八)
- 『風林火山』(1969年、監督:稲垣浩)
- 『新撰組』(1970年、監督:沢島忠)
- 『待ち伏せ』(1970年、監督:稲垣浩)
- 『二人だけの朝』(1971年、監督:松森健)
- 『犬笛』(1978年、監督:中島貞夫、※三船プロ創立15周年記念作品)
- 『海燕ジョーの奇跡』(1984年、監督:藤田敏八)
[編集] テレビドラマ
- 『桃太郎侍』(1967年、日本テレビ)
- 『大忠臣蔵』(1971年、NET)
- 『荒野の素浪人』(1972年・1974年、NET)
- 『荒野の用心棒』(1973年、NET)
- 『大江戸捜査網』(1973年、東京12チャンネル)
- 『破れ傘刀舟悪人狩り』(1974年、NET)
- 『剣と風と子守唄』(1975年、日本テレビ)
- 『隠し目付参上』(1976年、毎日放送)
- 『人魚亭異聞 無法街の素浪人』(1976年、NET)
- 『江戸特捜指令』(1976年、毎日放送)
- 『青春の甘き香り』(1977年、東海テレビ)
- 『横溝正史シリーズⅠ・Ⅱ』(1977年・1978年、毎日放送)
- 『江戸の鷹 御用部屋犯科帖』(1978年、テレビ朝日)
- 『江戸の牙』(1979年、テレビ朝日)
- 『駆け込みビル7号室』(1979年)
- 『時代劇スペシャル・素浪人罷り通る』シリーズ(フジテレビ)
- 『時代劇スペシャル・新吾十番勝負』シリーズ(フジテレビ)
- 『時代劇スペシャル・十六文からす堂』シリーズ(フジテレビ)
- 『文吾捕物帳』(1981年、テレビ朝日)
- 『土曜ワイド劇場·明智小五郎シリーズ』(テレビ朝日)
[編集] その他
かつての敷地の間を通っていたバス通り(成城富士見橋通り)を走る小田急バスには長らく「三船プロダクション」というバス停が存在し、名残をとどめていたが、2003年4月に「成城八丁目」に名前が改められた。