小林正樹
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小林 正樹(こばやし まさき)
- 映画監督。本文で解説。
- テレビ演出家。1と3は無関係。
- 内山田洋とクール・ファイブのメンバー。1と2は無関係。
小林 正樹(こばやし まさき、1916年2月14日 - 1996年10月4日)は昭和期の映画監督。
北海道小樽市に会社員の息子として生まれる。大女優田中絹代の従弟に当たる。早稲田大学文学部哲学科で会津八一に東洋美術を学ぶ。
1941年、松竹大船撮影所助監督部に入社する。入社試験に際しては、親しい間柄であった田中絹代に紹介を頼んだが、「映画界は実力がなければ通用しない」と諭され、田中の縁者であることを隠し通したという。まもなく応召するが、1946年復員。木下惠介監督につく。1952年、『息子の青春』で監督デビューする。以降、松竹で庶民の生活を叙情豊かに描いた作品を撮る。
1959年から3年間かけて、五味川純平の長編『人間の條件』を映画化し、6部作、9時間38分の超大作に仕上げた。この作品は、戦争が個人を圧殺していく不条理を描いて評判となり、毎日芸術賞、ベネチア国際映画祭サン・ジョルジュ賞とイタリア批評家賞、毎日映画コンクール日本映画賞などを受賞する。
1962年には、橋本忍の脚本を得て、初の時代劇『切腹』(原作は滝口康彦「異聞浪人記」)を撮り、名監督の座を確固たるものとする。同作でカンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞した。 1965年には『怪談』でもカンヌ国際映画祭審査員特別賞、1967年には『上意討ち』でヴェネチア映画祭国際批評家連盟賞を受賞した。1971年にはカンヌ国際映画祭で25周年記念として世界10大監督の一人として功労賞を受賞した。
自らの戦争体験から時代に翻弄される人間の悲劇を丹念に描く姿勢は、最後の監督作品となった連合赤軍事件を題材にした円地文子原作の『食卓のない家』まで貫かれている。
また、極東国際軍事裁判の経緯と、その意味をドキュメンタリーフィルム中心にまとめた『東京裁判』の製作も、特筆されるべきだろう。この作品では、ベルリン映画祭国際批評家連盟賞を受賞した。1969年、黒澤明、木下惠介、市川崑と四騎の会(よんきのかい)を結成。小林正樹が、この会の仕事として手がけたのが、井上靖の原作を連続TVドラマ化した『化石』(主演:佐分利信、岸惠子。1975年に編集され劇場公開された。)である。
小林正樹は、従姉である大女優・田中絹代に対する思い入れが強く、その功績を後世に残さなければならないと考えていた。1985年に小林自身が病気で倒れた際には急遽、彼の働きで毎日映画コンクールに田中絹代賞が創設され、日本映画界の発展に貢献した女優に授与されることとなった。1996年10月4日、心筋梗塞のため東京都世田谷区の自宅で死去。享年80。絹代の出生地であり墓がある山口県下関市に埋葬されている。
[編集] 監督作品
- 息子の青春(1952年)
- まごころ(1953年)
- この広い空のどこかに(1954年)
- 三つの愛(1954年)
- 美わしき歳月(1955年)
- 壁あつき部屋(1956年)
- あなた買います(1956年)
- 泉(1956年)
- 黒い河(1956年)
- 人間の條件・第一・第二部(1959年)
- 人間の條件・第三・第四部(1959年)
- 人間の條件・完結篇(1961年)ヴェネチア国際映画祭サンジョルジュ賞・イタリア批評家賞
- からみ合い(1962年)英国アカデミー賞国連平和賞
- 切腹(1962年)カンヌ国際映画祭審査員特別賞
- 怪談(1965年)カンヌ国際映画祭審査員特別賞、ローマ映画祭監督賞、米アカデミー外国語映画賞ノミネート
- 上意討ち 拝領妻始末(1967年)ヴェネチア映画祭国際批評家連盟賞
- 日本の青春(1968年)カンヌ国際映画祭コンペティション参加
- いのちぼうにふろう(1971年)
- 化石(1975年)
- 燃える秋(1978年)
- 東京裁判(1983年)ベルリン映画祭国際批評家連盟賞
- 食卓のない家(1985年)ヴェネチア映画祭招待作品