リバティ船
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
リバティ船(—せん、Liberty ship) は、第二次世界大戦の最中、アメリカ合衆国で大量に建造された規格型輸送船の総称である。戦時標準船(10,000 DWT)とも呼ばれる。1940年から短期間のうちに2,600隻以上が建造された。
目次 |
[編集] 概要
建造期間短縮のためにブロック工法を導入、船体の鋼板を結合する方法としてリベット打ちでなく溶接を採用したが、次々と沈没事故に見舞われた。徹底した調査により鋼板の低温脆性、溶接手法の不備、応力集中による破壊の進行が原因とされた。以後の造船技術はこれを教訓として研究・改良が行われ、その後の溶接構造船体の普及に貢献した。工学における失敗をその後の教訓として生かせた例として、タコマ橋崩落およびデハビランド・コメット機の連続墜落事故と並ぶ三大事故として言及される。
[編集] 歴史
リバティ船の建造計画を指揮したのはデトロイトの造船業者であったヘンリー・カイザーである。このためカイザー船の名前でも知られている。
リバティ船の多くは蒸気レシプロ機関を搭載しており低速だったが、蒸気タービンの製造が軍用に優先されていたことと民間の造船所がレシプロ機関の製造に慣れていたことで経済的に建造できた。数百隻が大手造船所だけでなく貨物船を需要を満たすための急造の造船所で建造された。
最初のリバティ船は「パトリック・ヘンリー」で、1941年9月7日に進水した。当初は1隻当たり230日で建造され、次第に平均建造日数は42日まで短縮された。「ロバート・G・ピアリ」は起工後わずか4日と15.5時間で進水するという建造速度記録を樹立している。
1943年には1日当たり3隻のリバティ船が新たに竣工した。リバティ船は当初は有名な米国人にちなんだ船名がつけられた。だが、建造数が膨大であったためつけられる名前が枯渇し、アメリカ人以外の人名や、一般的には船名に使われない生存中の人の名前も使用された。戦時中、やはり規格型船として大量建造されたT2級タンカーと共に、軍事輸送の主翼を担った。
多くのリバティ船が戦時を生き延び、戦後の貨物輸送船団の大きな割合を占めた。10,000トンクラスの貨物船を「リバティ船級の貨物船」という用語は今なお海運業界で健在である。
リバティ船を建造するためのたいへんな努力の成功、建造された船の実数、そして多数の船が設計された耐用年数以上に使われたこと、これらが総合してリバティ船は専門的な研究対象となった。
戦争の終わり頃になると、リバティ船に代わってビクトリー船など改良型の規格型貨物船が建造された。
現存するリバティ船は「ジェレミー・オブライエン」と「ジョン・W・ブラウン」の2隻である。いずれも動態保存されており実際に航行可能な状態に保たれている。前者は記念艦に改装された。
[編集] 戦時改造
当時のアメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトの、「商船の改造空母にて船団の護衛をさせて、空母の航空機によって潜水艦の捜索および攻撃、船団の退避誘導をできないか」という提案から、アメリカ海軍はリバティ船を徴発、船体を流用して護衛空母に改装する工事が行われた。
[編集] 参考・関連文献
- Peter Elphick Liberty: The Ships That Won the War(Naval Institute Press、2001年) ISBN 1557505357
- Walter W. Jaffee The Liberty Ships from A (A.B. Hammond) to Z (Zona Gale)(Glencannon Press、2004年) ISBN 1889901253
- 大内健二『戦時商船隊-輸送という多大な功績』(光人社NF文庫、2005年) ISBN 4-7698-2469-6
- 大内健二『戦う民間船-知られざる勇気と忍耐の記録』(光人社NF文庫、2006年) ISBN 4-7698-2498-X
[編集] 履歴
- リバティ船/履歴 英語版の履歴