ラシュタット会議
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ラシュタット会議(ラシュタットかいぎ, Rastatter Kongress)とは、フランス革命戦争(ナポレオン戦争)における神聖ローマ帝国諸邦と、フランス革命政府との全面的なフランス革命戦争終結を目指した国際会議である。講和会議の議長として、スウェーデンのフェルセン伯爵が調停を行った。この会議には、オーストリアのメッテルニヒ侯爵が出席し、外交官として初の業績を残した。
1798年1月19日から会議が始められたが、各諸邦の利害が衝突し合い、遅々として進行しなかった。特にオーストリアは、講和を認めず会議をだらだらと先延ばすのである(後述)。講和会議そのものは、イタリアにおけるカンポ・フォルミオ条約において、放棄されたライン川左岸の領有権と補償を巡って紛糾する。オーストリア側は、失ったライン左岸の補償が何らされなかったが、オーストリアの外交官メッテルニヒは会議を半ば主導し、会議はオーストリア優位で行われて行った。最終的に講和会議は失敗し、フェルセンの調停は無に帰した。会議は結局、何ら纏まりを得ずに1799年3月21日に終了した。
因みに1797年11月27日から12月1日までナポレオン・ボナパルト将軍が儀礼的に参加している。この席でフェルセンは、ナポレオンよりマリー・アントワネットとの逸話を聞かれたと言われている。
講和会議が長引き、最終的に和睦に至らなかったのは、オーストリアの策謀と言われている。この会議で、オーストリアはライン川左岸の領有権を一時的にフランス側に譲渡しているが、オーストリア側の意向で革命政府との全面的な和解は見送られた。メッテルニヒは、この会議において神聖ローマ皇帝の意向を完全に遂行させている。彼は外交官としての才能を如何なく発揮し、軍事と崩壊した対仏大同盟(第一次対仏大同盟)の再建という時間稼ぎに成功した。これはオーストリアにとっては、外交的勝利であった。この時間稼ぎによって、対仏大同盟は復活を遂げ、第二次対仏大同盟結成へと至る。さらに、ナポレオンがエジプト遠征を行っている隙を衝いて、オーストリアはナポレオンに占領された北イタリアの奪回に成功する。フランス革命戦争は第二期に突入し、より一層、ヨーロッパは動乱の渦中へと引きずり込まれて行くのである。