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ヤヌシュ・コルチャック - Wikipedia

ヤヌシュ・コルチャック

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ヤヌシュ・コルチャック

ヤヌシュ・コルチャック(Janusz Korczak, 1878年7月22日 - 1942年8月)は、ポーランド小児科医、孤児院院長で、児童文学作家。本名は、ヘンリク・ゴルトシュミット(Henryk Goldszmit)。ユダヤ系ポーランド人。父は弁護士だったが、早くに亡くなった。

ワルシャワ大学医学部を卒業。それに先立ち、1896年に作家としてデビュー。社会批判的なまなざしをもった写実的な作風が顕著である。

1907-11年ロンドン、パリ、ベルリンで1年近く研修、特にベルリンで障害児教育の現場に触れ、小児科医としての決意を固める。

ポーランド帰国後、既に学生時代の1904年から夏のキャンプのボランティアとして関係のあったワルシャワ慈善教会との係わりを深め、ナチス・ドイツの統治下のワルシャワゲットーで、ユダヤ人孤児の孤児院を運営することになる。ワルシャワ慈善教会は、当時、ロンドンやシカゴでも始まっていたセツルメント事業をやっていた組織で、慈善食堂や診療所、無料図書館、孤児院などの事業を手がけていた。

目次

[編集] 生涯

父ユゼフ・ゴルトシュミットと母ツェツィリア・グウェンヴィツカとの間に生まれる。家は裕福な弁護士一家であった。

ゴルトシュミット家は、ワルシャワではポーランドに同化した家族と見られていた。反ユダヤの風潮が高まる中で初めてコルチャックは、自らのユダヤ系の出自を意識することになった。

学校時代、彼はワルシャワの文系のギムナジウムに通った。そこで、ラテン語、ドイツ語、フランス語、そしてギリシア語を学んでいる。授業は、ワルシャワが18世紀のポーランド分割の結果、ロシア領に入っていたため、ロシア語で行われた。1896年父親が亡くなってから、家族の経済基盤は忽ちにして破綻を来たし、若きヘンリクは、家庭教師で家族の生計を支えなくてはならなかった。

1898年から1904年までワルシャワ大学で医学を学ぶ。小児科の専門医として学位を取得したのち、ワルシャワの小児科病院に勤務の職を得た(1904-1911年)。そこでの彼の活動は、1904・05年、彼が日露戦争に野戦病院の医師として従軍し、その後引き続いて彼が国外で研修(ベルリンで1年、その後パリで半年)を受けたため一時的に中断された。

医学部での教育期間に平行し、彼は、執筆活動を始めた。新人作家としてコンテストに参加する際、彼はそばにあったユゼフ・クラシェフスキの小説『ヤヌシュ・コルチャックと美しい刀鍛冶の娘』の主人公の名前から借用して、ヤナシュ・コルチャック(Janasz Korczak )をペンネームとした。これがJanusz Korczak と取り違えられ、彼はそれをそのまま使用することにした。

彼の処女作は早くも彼を有名作家にのし上げ、それと共に彼は有名医と持てはやされるようになった。この副収入は、貧しく親のない子供たちの医療費や支援の基金に充てられた。 都市の労働社会層の子供たちのため、義捐金で運営される夏の休暇村にも無報酬の児童指導員として何度か同行した。

1911年、新しく建設されるユダヤ人の孤児のための孤児院の院長のポストを打診された時、彼はその職を受諾し、その地位に就くことを決意した。

クロフマルナ通りの孤児院
クロフマルナ通りの孤児院

この孤児院、ドム・シェロット(Dom Sierot、「孤児たちの家」の意)に、彼の生涯を捧げた。ユダヤ人の組織「孤児支援」(Hilfe fur die Waisen)により運営されたこの孤児院は、14歳までのユダヤ人の孤児を受け入れていた。コルチャックは、原則的な子供の権利に立脚した理想を貫き、新たな道を模索し、例えば子ども共和国モデルの移植のようなものであるが、教育的なかかわりの余地を作り出した。壁新聞、子ども集会、仲間裁判など、注目すべき教育実践を行った。

コルチャックが、子どもの権利の三つの大きな柱として掲げた「子供の死についての権利」「子供の今日という日についての権利」「子供のあるがままである権利」に込められた、子供も大人も、それぞれその人格が尊重されなくてはならないという見解は、今日なおその真価を失っていない。

第一次世界大戦が勃発し、彼は再びロシア軍の混成軍団の従軍医として召集され、ドム・シェロットでの活動は中断を余儀なくされた。孤児院の運営は、この時期彼の同僚、ステファニア・ヴィルティンスカが引き継いだ。しかし、彼はこの時期も教育学的な活動を続けていた。ひとつは、『人はいかに子供を愛するのか』という彼の初めての教育学的な著作により、もう一つは、彼がキエフで宿営を構えていた時期、いくつかの孤児院に医師としてかかわり、そこでポーランドの子供たちのための寄宿学校を運営していたマリア・ファルスカと知り合っていた。

その後、再び独立したポーランドの首都として機能し始めたワルシャワに帰還。そこでの日常的な生活は、コルチャックの仕事が花開いた時期と言っても良いだろう。

ドム・シェロットでの仕事と並んで、彼はマリア・ファルスカと共に最初ワルシャワのプリュスコウにいたが、1928年ワルシャワの郊外のビェラヌイに移されたナシュ・ドム (Nasz Dom、「僕らの家」)の指導監督を引き受けた。これは二年間のみであるが、一種の実験学校であった。その他、地下の非合法の大学「さまよえる大学」(en:Flying University)でも教育学の教鞭を採った。

1926年からは地域裁判所で教育問題に関する専門家として顧問を務め、1926年から1930年までは、子供新聞「小評論」(Mały Przegląd)の編集長も引き受けた。加えて彼は数多くの本も書いている。その中には、元々児童書には頻繁に彼と子供たちの身の回りの事件が登場していたのだが、教育論としても書かれるようになり、自身の経験と理想を書き記した。最後に、1935・36年にはポーランドのラジオ放送のキャスターにもなり、本名ではなく「老博士」としてマイクから子供たちと共に、子供たちに向けてのおしゃべりを楽しんだ。

1939年ドイツのポーランド侵攻によりヨーロッパで第二次世界大戦が始まった。それと共に国家社会主義の反ユダヤ主義を背景に、大規模なユダヤ人に対する差別、迫害が始まり、これはホロコーストという、過去に例を見ない大規模な民族虐殺に向かうことになる。1940年10月ユダヤ人の孤児院の子供たちはワルシャワゲットーに移住するようにとの命令を受けて、ドム・シェロットの教師と子供たちは、その建物はすぐ目の前の都市部にあるにも係わらずゲットーへの移動を余儀なくされる。

ゲットーの劣悪な環境の中でもコルチャックは、その最後の数ヶ月執筆への意欲を失わなかった。彼の『1942年ワルシャワゲットー日記』は、ドム・シェロットで彼の助手として働いたポーランド人のイーゴル・ネーヴェルリが密かに保管し、1958年初めて刊行されたものであるが、生涯の思い出、ゲットーでの日々の日記的な記述の他に未来への想いと幻想的な白昼夢などが入り交ざった内容となっている。彼の生涯の仕事の彼自身による集大成のような文献として貴重なものである。

イスラエルにあるコルチャックと子供達の記念碑(1978年、Boris Saktsier)
イスラエルにあるコルチャックと子供達の記念碑(1978年、Boris Saktsier)

1942年8月ナチスのいわゆる「ユダヤ問題最終解決」の名の下、孤児院の200人の子供たちは、親衛隊によりトレブリンカ強制収容所(正しくは、Vernichtungslager Treblinka、トレブリンカ抹殺キャンプ)に移送された。コルチャックは、子供たちを見捨てて自分だけが助かることを拒否し、子供たちと共に移動し、日記の記載がそこで終わっているため、恐らく1942年8月5日、ナチスにより子供たちと共にガス室で殺害された。

[編集] 重要な著作

[編集] 児童文学

  • 『街頭の子ども達』Children of the streets (Dzieci ulicy, Warsaw, 1901)
  • Koszałki Opałki (Warsaw, 1905)
  • 『サロンの子ども達』Child of the Drawing Room (Dziecko salonu, Warsaw, 1906, 2nd edition 1927) – *partially autobiographical
  • 『モシキ、ヨシキとスルーレ』Mośki, Joski i Srule (Warsaw, 1910)
  • 『ユシキ、ヤスキとフランキ』Józki, Jaśki i Franki (Warsaw, 1911)
  • Sława (Warsaw, 1913, corrected 1935 and 1937)
  • Bobo (Warsaw, 1914)
  • 『マチウシ一世』König Hänschen der Erste ( Erstausgabe: 1923, "Król Maciuś Pierwszy"
    • 『子どものための美しい国』中村妙子訳 晶文社 1988年
    • 『コルチャック先生のお話 マチウスⅠ世』近藤康子訳 女子パウロ会 1992
    • 『マチウシ一世王』大井数雄訳 影書房 2000年
  • 『孤島のマチウシ一世』König Hänschen auf der einsamen Insel (poln. Erstausgabe: 1923)
  • 『ジャックの破産』Bankructwo małego Dżeka (Warsaw, 1924)
  • 『もう一度子供になれたら』Wenn ich wieder klein bin (poln. Erstausgabe: 1925)
    • 『もう一度子供になれたら』近藤康子訳 図書出版社 1993年)
  • 『狂人の議会』Senat szaleńców, humoreska ponura (a screenplay for the Ateneum theatre in Warsaw, 1931)
  • 『魔法使いのカイトゥシ』Kajtuś czarodziej (Warsaw, 1935)

[編集] 教育学の著作

  • 『人はいかに子どもを愛するのか』Wie man ein Kind lieben soll(poln. Erstausgabe: 1919)
  • 『子どもの権利の尊重』Das Recht des Kindes auf Achtung(poln. "Prawo dziecka do szacunku", Erstausgabe: 1928)
  • 『生活の規則』Regeln des Lebens(poln. Erstausgabe: 1930)
  • 『喜ばしい教育学』Frohliche Padagogik(poln. Erstausgabe: 1939)

[編集] 参考文献

  • ベティ・リフトン『コルチャック物語 子どもたちの王様』サイマル出版会 1988年
  • 近藤二郎『コルチャック先生』朝日新聞社 1990年
  • モニカ・ペルツ『コルチャック 私だけ助かるわけにはいかない!』ほるぷ出版 1994年
  • 井上文勝『戯曲 コルチャック先生 ある旅立ち』文芸遊人社 1995年
  • 樋渡直哉『子どもの権利条約とコルチャック先生』ほるぷ出版 1994年
  • 近藤康子『コルチャック先生 岩波ジュニア新書』岩波書店 1995年
  • 新保庄三『コルチャック先生と子どもたち』あいゆうぴぃ 1996年
  • サンドラ・ジョウゼフ『コルチャック先生のいのちの言葉』明石書店 2001年
  • 塚本智宏『コルチャック 子どもの権利の尊重』子どもの未来社 2004年
  • ルペルト・ノイデック:文、ルーカス・リューゲンベルク:絵『ヤヌシュ・コルチャック』(絵本)Butzon&Bercker 2000年 - ドイツ語
    • ルペルト・ノイデック(de:Rupert Neudeck)は、ジャーナリストで、国際的な医療人道支援団体カップ・アナムル委員会(Komittee CAP ANAMUR)の創設者。ルーカス・リューゲンベルクはベネディクト会修道士。

[編集] 受章

  • ドイツ出版協会平和賞 1972年(没後授与)

[編集] 没後

  • 1989年11月20日に国連総会で採択された「児童の権利条約」は、もともとコルチャックによる「子どもの権利」のアイディアに基づきポーランド政府が提案したものである。
  • ポーランド政府は、コルチャックの名を記念して、子どもの権利と生活のために多大な貢献をした人に授与するヤヌシュ・コルチャック賞を設けている。日本からは、黒柳徹子が「窓際のトットちゃん」でこれを受賞している。
  • 1957年 エルヴィン・シルヴァヌスによる劇「コルチャックと子どもたち」が初演、ドイツの第二次大戦後最も数多く上演された舞台劇の一つに数えられる。
  • 1990年ポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダが、コルチャックの物語を映画化する。ヴォイチェフ・プショニャックが、アニエスカ・ホランドの脚本に基づくドイツ・ポーランド合作映画「コルチャック先生」の中でコルチャックを演じた。
  • 日本では1995年井上文勝の脚本により、劇団ひまわりが「コルチャック先生」を初演。コルチャック先生は、加藤剛が演じた。2006年9月にも俳優座の9月公演として「コルチャック先生」がやはり加藤剛の主演で上演された。
  • 2002年、『マチウシ一世』を原作としてドイツ、フランス、ポーランド、ハンガリーの合作でTVアニメシリーズ「小さな王様マチウス」が製作され、12月TVで放映された。のち劇場版アニメが2007年9月公開された。絵本、DVD、ゲームなども販売される。
  • 2006年2-3月、スコットランドのダンディー・レップシアター(Dundee Rep Theatre )が、ジェイムス・ブラウニングの脚本、デビット・グレイブの監督で「コルチャック先生の選択」を日本公演。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク


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