マリー・ド・メディシス
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マリー・ド・メディシス(Marie de Médicis, 1573年4月26日 - 1642年7月3日)は、フランス国王アンリ4世の王妃、ルイ13世の母。
[編集] 生涯
イタリア・フィレンツェの名門メディチ家に生まれる。イタリア語名はマリア・デ・メディチ(Maria de' Medici)。父はトスカーナ大公フランチェスコ1世。1600年、27歳の時に、前妻マルグリット・ド・ヴァロワと離婚したばかりのアンリ4世に見初められフランス王室に嫁いだ。が、これは国の財政が逼迫していたためにアンリ4世が15万ポンドものマリーの結婚持参金を目当てにした政略的婚姻であった。アンリ4世の女好きは有名で、生涯で50人もの愛人がいたともいわれる。夫が留守がちなことに加え、結婚当初フランス語が喋れなかったマリーの王宮での暮らしは孤独感が付きまとっていたという。それを紛らわすためかマリーの浪費癖は尋常ではなく、毎日のように宝石を購入したりした挙句、せっかくの持参金もほとんど底をついてしまうほどであった。
1601年、待望の世継ぎであるルイ13世を出産したことにより王宮での立場は一気に向上。アンリ4世も放蕩を自重し、自分が不在の場合に国政の全権をマリーに与える布告を出した。夫の愛も取り戻し、やっとこれから王宮での穏やかな生活を送ることができる思われたが、1610年、狂信的カトリック教徒が夫アンリ4世を暗殺。マリーは後を継いだ息子ルイ13世の摂政としてフランス王政を担う重責を背負うこととなった。
しかしその後アンリ4世時代の宰相を罷免して、イタリア出身のアンクル元帥ことコンチーノ・コンチーニなる人物を補佐官として重用。融和が図られていた国内のカトリックとプロテスタントによる争いにおいて、カトリック教会の影響を受けたことによりカトリックの方をあからさまに擁護、子供たちをフランスにとっては政敵であるはずのハプスブルク家と婚姻させるなど、フランス国民を思い遣った名君として知られたアンリ4世の政治方針をことごとく破棄した。このことが次第に政治に目覚めてきた息子ルイ13世や有力貴族たちの不満を募らせていった。彼らはマリーに三部会開催を迫るなどして政治の改革を要求した。
次第に不利な立場に追いやられつつあったマリーであったが、有能なリシュリュー枢機卿が政治の舞台に登場。マリーは自分の支援者として登用しようとしたが、息子ルイ13世は先手を打った。1617年、ルイ13世はコンチーニの暗殺及び母マリーのブロワ城幽閉を命じ、リシュリューを自分の補佐官として味方に引き入れた。マリーは1619年にブロワ城を脱出、ルイ13世の弟であるオルレアン公ガストンと共に反乱軍を決起したが、あっという間にフランス軍に鎮圧された。リシュリュー卿のとりなしでマリーはルイ13世と和解。1621年まで王立議会の一員として政治に携わった。
リシュリューがルイ13世の宰相となり政治の実権を握ると、マリーはリシュリューの失脚を画策し始めるが、この時もリシュリューの方が一枚上手であった。1631年にマリーはフランスを追放されブリュッセルに亡命。1642年、現在のドイツ・ケルンで亡くなった。
ルーブル美術館には「マリー・ド・メディシスの生涯」と題された、ルーベンスによる24枚の連作大画が展示されている。ルイ13世に反乱し和解した後、リュクサンブール宮殿改築の際にマリー自身がルーベンスに注文した作品で、彼女の生誕から婚姻、王室での日々などが神話の神になぞらえた姿で描かれている。
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