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マリオ・ランツァ - Wikipedia

マリオ・ランツァ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

マリオ・ランツァMario Lanza、本名:Alfredo Arnold Cocozza、1921年1月31日 - 1959年10月7日)は、アメリカ合衆国歌手映画俳優。力強いテノールの歌唱でコンサート、レコードおよび銀幕で絶大な人気を誇ったが、本格的なオペラ歌手への転身を図る途上、38歳の若さで早世した。

目次

[編集] 経歴

[編集] オペラ歌手を目指して

ペンシルバニア州フィラデルフィアに、イタリアシチリア)系移民の両親の一人っ子として生まれる。オペラ愛好家であった父親の膨大なレコード・コレクションを聴き育ち、16歳の頃までには声楽の才能の片鱗を示し始め、このころ既に地元YMCAのオペラ公演に出演したとの記録が残されている。

21歳のときロシア人指揮者セルゲイ・クーセヴィツキーにその才能を見出され、マサチューセッツ州タングルウッド、バークシャー音楽院の奨学生となる。1942年8月7日、同地でのオットー・ニコライ作曲『ウィンザーの陽気な女房達』フェントン役で本格的な舞台デビューを飾った[1]。なおこの機会に、アルフレッド(フレディ)・ココッツァでなくマリオ・ランツァ[2]を芸名として採用している。また翌日にはプッチーニラ・ボエーム』ロドルフォ役にも出演(第3幕のみ)、彼のフェントン役、ロドルフォ役での歌唱はニューヨーク・タイムズ紙を含む多くの新聞・雑誌の音楽評で絶賛された。

折からの第二次世界大戦でランツァは召集され、陸軍航空部隊の宣伝部隊員[3]として前線向けラジオ放送で様々の歌唱を聴かせた。

終戦に前後して除隊したランツァは指揮者レナート・チェリーニらに師事してオペラのレパートリー習得に努めた。また1945年10月にはCBSラジオと契約、音楽番組"Great Moments in Music"に出演[4]して、はじめて全米の聴取者にその声を聴かせた。この全国放送のおかげなどもあって、ランツァは名テノール、ジーリラウリ=ヴォルピを教えたこともある高名な声楽教師エンリコ・ロザーティの知遇を得、彼のもとで1年超にわたってさらなる訓練を積むことができた。生まれついての素材の良さだけで歌唱を続けてきたランツァは、ロザーティの指導で素晴らしいテノーレ・リリコ・スピントに変身した。

[編集] コンサート、そして映画のスターに

そして次にランツァの可能性に目をつけたのはコロムビア・レコード社だった。同社はバス・バリトンのジョージ・ロンドン、ソプラノのフランシス・イーンドとランツァの3若手歌手を「ベルカント・トリオ」と命名、1947年7月からほぼ1年間にわたって、アメリカ合衆国をはじめとする北米各地で86回のコンサートを打ったのである。美声・美貌のテノール、マリオ・ランツァは、このトリオの中でも花形であった。

アメリカ娯楽産業の頂点、映画業界ももちろんこの新進テノールを見逃さなかった。1947年に巨大映画会社メトロ・ゴールドウィン・メイヤー社は7年間の独占映画出演契約をランツァと取り交わすのである。彼の主演映画作品『その真夜中のキス (That Midnight Kiss )』(1949年)および『ニューオーリンズの美女 (The Toast of New Orleans )』は大ヒットし、映画からのシングル盤もミリオン・セラーとなった。1951年にはエンリコ・カルーソーの伝記映画『歌劇王カルーソー(The Great Caruso )』に主演、カルーソーに扮して多くのオペラ・アリアを歌いかつ演じた。

[編集] 遠のくオペラ・デビュー

こうして興行的には瞬く間に頂点を極めた感のあったランツァだったが、皮肉なことに彼が本来目指していたはずのオペラ歌手としての本格デビューはどんどん遠のいていった。ランツァの希望によりMGMの拘束期間は年間6か月を超えないこととされ、彼は残り半年をオペラの勉強に充てる腹積もりだったが、ハリウッド・スターにつきものの社交でその貴重な日時は雲散霧消した。それでも1948年にはニューオーリンズ・オペラでプッチーニ『蝶々夫人』ピンカートン役を演じ、新聞評によればかなりの高評価を得ていたが、同劇場での翌年の契約にあった、ヴェルディラ・トラヴィアータ』アルフレード役は、結局のところ1年のうちに役を習得することができず、自らキャンセルしている。

一方、これまでこのフィラデルフィア出身のイタリア移民の子のオペラ挑戦に好意的な眼差しを送っていた「シリアスな」音楽評論家たちは、次第にランツァに対する敵意を示すようになる。「オペラ舞台に殆ど立っていない青二才俳優が、こともあろうに史上最高のテノール、カルーソーを演じるとは」といった論調が次第に支配的になり、また彼らの鋭い耳とペンはランツァの歌唱上の瑕疵に容赦なく襲いかかった。タイム誌1951年のある号は匿名記者の筆で、ランツァの歌唱スタイル上の欠陥、このままではその美声も失うのではないかとの懸念(これは不幸にも的中することになる)のみならず、彼がオペラ歌手として要求される知性に欠けるのではないかという点までをも皮肉な筆致で綴っている。

ランツァをフランク・シナトラらと同列に見做し、熱烈に愛するファンは多かった。しかしオペラ愛好家たちは、30歳にしてスターダムにのしあがったランツァに暖かくはなかった。「実は彼は声量がまったくないので、オペラの舞台には立てないらしい」、「映画撮影時には何度も録音をし直して、テープを継ぎはぎだらけにしてやっと完成するらしい」このような噂[5]がまことしやかに囁かれた。

それでもランツァの一般への絶大な人気を当て込んでか、有名オペラ・ハウスからの出演の打診は少なくはなかった。メトロポリタン歌劇場サンフランシスコ・オペラなど全米の歌劇場はもちろんのこと、1950年にはミラノスカラ座の音楽監督である名指揮者ヴィクトル・デ・サバタまでもがロサンジェルスにあるランツァの自宅を訪問、1950年-51年シーズンのウンベルト・ジョルダーノアンドレア・シェニエ』タイトル・ロールでの出演を打診してきたという。

[編集] 挫折のはじまり

しかしランツァはそれらオファーの全てを断り続ける。その真意は不明である。単にハリウッド・スターとしての成功に傷が付くかも知れないリスクを冒したくなかったのかも知れないし、いま準備不足のまま大劇場にデビューし失敗すれば、彼のオペラ歌手としての夢は永遠に絶たれるだろうと知っての賢明な選択だったかもしれない。賢明ではなかったのは、この頃から彼がアルコールに逃避の途を求めるようになったことである。彼のマネージャーが投資に失敗しランツァの個人家計が破産寸前に追い込まれる、税務当局から25万ドルにも及ぶ過年度追徴課税を課されるなどご難は続き、1954年からほぼ2年間、ランツァはほとんど活動停止状態だった。

ランツァが復活を果たしたのは1956年のワーナー・ブラザーズ映画『愛のセレナーデ (Serenade )』である。2年間のブランク、飲酒などの不摂生のためか声質に翳りが生じ、その歌唱は以前より不安定である、との評もあり、また興行収入的には振るわなかった。しかし、ここで映画が以前のようなヒットとならなかったことでランツァはひとつの決心をすることができた。オペラ歌手としての再出発である。1957年5月、マリオ・ランツァは妻と4人の子供を伴いローマへと向かったのである。

[編集] ローマへ、そして早すぎた死

到着早々彼は映画『ローマ7つの丘 (The Seven Hills of Rome )』の撮影、同年末にロンドンそして翌年にはヨーロッパ大陸ツアーを行った。これらはすべて興行的にはかなりの成功であったが、一方でランツァの健康上の懸念も明らかになってきた。この頃にはフィルム映りからも彼が肥満傾向であるのは明らかであったし、静脈炎、高血圧痛風などさまざまの不調が彼を苛んだ。しかし彼は医者の警告を無視してコンサート・ツアーを継続したし、その食生活上の不摂生も改まることはなかった[6]

彼は本格的なオペラの勉強をすすめ、ローマ歌劇場1960年-61年シーズンにレオンカヴァッロ道化師』カニオ役でデビューするスケジュールも公式に発表された。しかし上記の症状に加え腎不全、動脈硬化症などが彼を襲う。1959年4月には軽度の心臓発作で入院、療養中の8月には肺炎を併発し、同年10月7日、肺塞栓症のためローマの病院で亡くなったのだった。享年38。悲嘆に暮れる妻は4人の子供を残して5か月後に後を追った。

[編集] 脚注

  1. ^ この公演にあたって彼を指導した中には、若き日のレナード・バーンスタインもあったという
  2. ^ この名は母親の結婚前の名前マリア・ランツァを男性形にしたもの。
  3. ^ 彼は左目の視力が弱かったため第一線に加われなかったとの説がある。
  4. ^ この番組はフル・オーケストラの伴奏で、オペラの名場面抜粋などを演奏するというもの。なおランツァの契約前に同番組に出演していたテノールは、トスカニーニお気に入りの歌手として有名なジャン・ピアースである。
  5. ^ このような噂は今日でも根強いものがあるが、少なくとも声量と声質に関しては同時代のイタリア系アメリカ人ソプラノ、リチア・アルバネーゼはこうした伝説を否定、その美しくかつ豊かな声は(彼女の知っているテノール中)カルーソーの次、ジュゼッペ・ディ・ステファーノの上に位置するとしている。もっとも彼女も「(ランツァに)欠けていたのは良きコーチだった」と述懐している。
  6. ^ 体重減によって美声が失われるのではないか、との素朴な恐怖もあったようだ。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク


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