マフムード・アッバース
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パレスチナの政治家 マフムード・アッバース محمود عباس |
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生年月日 | 1935年3月26日(73歳) |
出生地 | ツファット |
没年月日 | |
死没地 | |
出身校 | |
前職 | {{{前職}}} |
現職 | {{{現職}}} |
所属政党 | パレスチナ解放機構 ファタハ |
称号・勲章 | |
世襲の有無 | {{{世襲の有無}}} |
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配偶者 | |
サイン | [[画像:|128px]] |
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第2代大統領 | |
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当選回数 | |
就任日 | 2005年1月15日 |
退任日 | |
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所属委員会 | {{{所属委員会}}} |
議員会館 | {{{議員会館}}} |
元首 | |
初代首相 | |
内閣 | アッバース内閣 |
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当選回数 | |
就任日 | 2003年3月19日 |
退任日 | 2003年9月6日 |
退任理由 | 大統領との対立のため |
元首 | (大統領) ヤーセル・アラファート |
内務庁長官 | |
内閣 | アッバース内閣 |
選挙区 | |
当選回数 | |
就任日 | 2003年3月19日 |
退任日 | 2003年9月6日 |
退任理由 | 大統領との対立のため |
元首 | (大統領) ヤーセル・アラファート |
第2代パレスチナ解放機構 執行評議会議長 |
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内閣 | |
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当選回数 | |
就任日 | 2004年11月11日 |
退任日 | |
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元首 | |
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その他の職歴 | |
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マフムード・アッバース(アラビア語:محمود عباس、Mahmoud Abbas、通称:アブー・マーゼン、アラビア語:ابو مازن、Abu Mazen、1935年3月26日 - )は、パレスチナの政治家。パレスチナ自治政府大統領(第2代)[1]、パレスチナ解放機構(PLO)執行委員会議長。
日本では、「マフムード」はマハムード、「アッバース」はアッバスとも表記される。
[編集] 概要
パレスチナ(現:イスラエル)のサファド(ツファット)出身。少年時代にイスラエルの建国とともに難民となり、ヨルダンに移住した。成長するとシリア、エジプトで高等教育を受け、ソ連のモスクワで大学院教育を修了した。
1950年代よりカタールにおいてパレスチナ解放運動に関わり、ヤーセル・アラファートを指導者とする解放運動組織ファタハの結成に参加、のちにファタハが参加したパレスチナ解放機構においてもその幹部となった。1960年代から1980年代にはアラファートと行動をともにし、1970年にブラック・セプテンバーでヨルダンを追われた後レバノンの首都ベイルートで活動、さらにイスラエルにレバノンを追われてチュニジアに活動の拠点を移した。その間、PLO国際局長として外部の様々な機関との交渉に携わってPLOの対イスラエル強硬路線放棄に関与したとされ、1993年のオスロ合意に基づく交渉と調印の場でもアラファートに同行した。
和平合意に基づいてPLOをもとにパレスチナ自治区がつくられた後は、PLO執行委員会事務局長を務め、民主主義的な手続きをとって選ばれた自治政府による自治区の運営を目指す動きの中心的な人物となった。
和平プロセスが行き詰まり、2000年より始まる第二次インティファーダにおいては非PLO系のハマスなどを中心とするパレスチナ人による対イスラエル武装闘争路線・テロ攻撃が続発するが、自治政府「大統領」のアラファート議長やPLOの保守派がテロに対して断固とした反対姿勢を打ち出さない中、アッバースは終始イスラエルに対する過激な抵抗に対して批判的な立場を取った。
イスラエルとパレスチナ抵抗運動の攻防が泥沼化し、アラファート議長のテロ抑止能力がすでにイスラエルやアメリカの信頼を失った2003年、アッバースは事態収拾に向けた国際社会の間接的支援を受け、3月19日に自治政府の首相に任命された。
アッバース首相は組閣作業に入ったが、実権を渡すことを渋るアラファート議長やテロ抑制に消極的なPLO内の保守派との間で交渉が難航し、一ヶ月後の4月29日、ようやく自治政府で初めての内閣が誕生した。
アッバース内閣はテロ抑制と治安の回復を掲げ、テロ抑制に対するアメリカ・イスラエルや自治政府の民主化改革に対する国際社会の期待を担い、アメリカの発表した和平のロードマップを実現することを目指した。しかし、ハマスらによるテロは一向にやまず、懸案の治安回復についても安全保障部門を首相の代表する行政機関に明渡すことを望まないアラファート議長との対立から、事態は一層混迷を深めた。
この結果、9月6日にアッバース首相はアラファート議長に辞表を提出、アッバース内閣は半年に満たない運命に終わった。これ以降、イスラエルはパレスチナ自治政府との和平交渉路線を再び拒否する。
首相辞任後、首相の職は議長側近のアフマド・クレイに譲ったが、PLO事務局長としてパレスチナ自治政府内の重要な地位を保持しつづけた。翌2004年10月末、アラファート議長が健康不安からフランスの病院に移送されまもなく重態に陥ると、後継者選出をはかるPLO執行委員会とファタハ執行委員会の会議を相次いで主催、暫定的にPLO議長職を代行し、クレイ首相とともにポスト・アラファート体制の最有力者となる。11月11日、アラファート議長が死亡すると、即日開かれたPLO執行委員会で後任のPLO議長に選出された。
翌2005年1月9日、アッバース議長は自治政府大統領選挙に当選し、名実ともにパレスチナの代表者となった。イスラエルのシャロン首相はアッバース大統領との会談に応じ、2月8日、暴力停止(停戦)に合意し、停戦の継続を条件として交渉再開を取り決めた。これを受け、アッバース大統領はハマスなど過激派に停戦の遵守を求めたが、ハマス側は「イスラエルの攻撃には反撃する」と条件を付けたため、イスラエル軍の攻撃と、それに対する報復は継続している。
自治区内に向けては、アッバース大統領はイスラエルとパレスチナの平和共存路線に向け、治安の回復や経済の再建に取り組んでいる。
[編集] 注釈
- ^ パレスチナ自治政府の「大統領」は、英語の President、アラビア語の رئيس (ra‘īs) の訳語である。日本語の報道では「自治政府議長」とされていること多いが、実際には自治政府の元首にあたる役職である。日本政府は従来この職を「自治政府長官」と呼んできたが、2005年5月のアッバース訪日にあわせて「大統領」に呼称を変更した。
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