ポーランド民主化運動
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ポーランド民主化運動( - みんしゅかうんどう)は、ポーランドの政治改革運動。最終的に従来のポーランド統一労働者党による政権は下野し、レフ・ワレサ率いる独立自主管理労働組合「連帯」が政権を握った。
目次 |
[編集] 民主化の背景
ポーランドは1919年まで、ロシア帝国の領域下に組み込まれており、元々反ロシア的感情が強い地域であった。
ソ連の衛星国に組み込まれてからも1956年、1970年と反ロシア(ソ連)的、反体制的、反共産党的な勢力が、国内の改革と民主化を求めて暴動を繰り返していた。ポーランド政府はソ連による全面的な介入を防ぎつつ、ある程度彼らの要求を聞き入れる、という事を繰り返してきた。
1980年からはレフ・ワレサ率いる独立自主管理労働組合「連帯」が活動を活発化しており、翌1981年「連帯」を非合法化。1983年に戒厳令が解除されたばかりであった。しかし非合法とされながらも「連帯」は以降も活動を続け、彼らを中心とした勢力は依然として国内改革と民主化を要求し、ポーランド共産党による政権を揺るがし続けた。
又1978年にポーランド人として初めてのローマ教皇となるヨハネ・パウロ2世が誕生すると、これはポーランド人のナショナリズムを大きく鼓舞し、反ロシア感情を一層大きくする結果となった。ポーランド人はカトリックでロシア人の正教会とは違うと言う自負があったからである。
こうした状況下でのソ連の外交方針の転換は、半信半疑でありながらも、ポーランド共産党政権にとっては渡りに船であり、時の為政者であったヴォイチェフ・ヤルゼルスキによる政権は、「連帯」を含めた民主化勢力との妥協を目指した。
[編集] 民主化の推移
ポーランドでの民主化を模索する動きは先ず1981年に非合法化された「連帯」を合法化する所から始まった。さらに1989年の2月からはポーランド統一労働者党政権と「連帯」をはじめとする民主化勢力との間で話し合いが行われ、両者の間で自由選挙の実施をすることで合意がなされた。この合意は6月に実行に移された。東欧では先頭を切って自由選挙が実施され、ワレサ率いる「連帯」が圧勝した。新政権として民主化を求める非労働党勢力が主導権を握りつつも、労働党勢力を政権に取り入れる連立政権が発足し、ヤルゼルスキが暫定的な大統領に就任。首相以下閣僚に「連帯」などの非労働党勢力出身の人物を任命して、新生ポーランドがスタートした。
新政権は、ポーランド統一労働者党に極めて有利であった憲法を改正・ポーランド人民共和国からポーランド共和国へ国名を改正・国民の直接選挙による大統領選挙の導入などを決定。この結果を受けた1990年、国民の直接選挙によって選ばれた初めての大統領で「連帯」のワレサが当選。政権の完全委譲が果たされた。
[編集] ポーランド民主化運動の影響
ポーランドは旧東欧諸国の中で初めて「複数政党制」による自由選挙を実施した。のちのベルリンの壁崩壊の影に隠れてしまったが、当時としては極めて画期的な出来事であり、東欧が変わり始めた兆しとして世界中の耳目を集めた。当然ではあるが、こうした兆候が隣接する東ドイツへ波及していったことを否定することは出来ない。
[編集] 略歴
- 1980年
- 7月1日 - 政府が食肉価格の引き上げを実施。
- 7月2日 - 全国でストライキが発生、拡大する。
- 8月14日 - グダンスクのレーニン造船所で労働者約14,000人によるストライキ。
- 8月16日 - グダンスクの21企業の代表者により「連合ストライキ委員会」結成。シチェチン、ヤシチシェンビェなどでも結成される。
- 8月22日 - 副首相・ヤギェルスキを代表とする政府のストライキ対策委員会が連合ストライキ委員会と初交渉。
- 8月30日 - シチェチンで政府代表団と連合ストライキ委員会が自由労働組合の公認などで合意。
- 8月31日 - グダンスクで政府代表団と連合ストライキ委員会が自由労働組合の公認などで合意(グダンスク協定)。全国で同様な協定が締結。
- 9月1日 - グダンスクのレーニン造船所で連合ストライキ委員会を改組し、初の自由労働組合を結成。各地に広まる。
- 9月17日 - グダンスクで自由労働組合の全国代表者会議が開催。独立自主管理労働組合「連帯」を結成。
- 1981年
- 1982年
- 1986年
- 6月 - ポーランド統一労働者党大会、「正常化」を宣言。
- 1987年