ベンヤミン・ネタニヤフ
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ベンヤミン・ネタニヤフ בנימין נתניהו |
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イスラエル9代首相
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任期: | 1996年6月18日 – 1999年7月6日 |
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出生: | 1949年10月21日 テル・アヴィヴ |
政党: | リクード |
配偶: | サラ・ネタニヤフ |
ベンヤミン・ネタニヤフ(בנימין נתניהו, Benjamin Netanyahu, またはBinyamin, 愛称Bibi, 1949年10月21日 - )は、第9代イスラエル首相。在任1996年6月18日から1999年7月6日。彼はイスラエル建国後に生まれた最初の首相。2005年12月に右派政党リクードの党首に再登板。尊敬する政治家は、同党の創設者・メナヘム・ベギン元首相と英国のマーガレット・サッチャー元首相である。また、急進的な新自由主義者でもある。
目次 |
[編集] 家族および個人の背景
ベンヤミン・ネタニヤフはベン=シオン・ネタニヤフとジラ・ネタニヤフ夫妻の息子として生まれた。父親のベン=シオンはロシア姓をミリコフスキー(Milikowsky)というリトアニア出のユダヤ人で、ユダヤ史の教授およびヘブライ・エンサイクロペディアの編集者であった。彼の兄ヨナタン・ネタニヤフは1976年のエンテベ空港奇襲作戦で戦死したイスラエルの英雄。弟のイド・ネタニヤフは放射線技師および作家。兄弟は三人ともイスラエル国防軍のエリート部隊、Sayeret Matkal に所属した。
ネタニヤフはアメリカ合衆国のペンシルベニア州フィラデルフィアの郊外で成長し、チェルテナム高校を卒業した。彼はマサチューセッツ工科大学の理工学位とMITスローン経営大学院の学位を持ち、ハーバード大学とMITで政治学を学んだ。ネタニヤフは三度結婚しており、最初の結婚で娘のノアをもうけた。現在は三番目の妻サラと共に暮らし、二人の子供がいる。
[編集] 首相職
ネタニヤフはパレスチナ・ゲリラのイスラエル民間人に対する自爆攻撃が多発した1996年に首相に選出された。シモン・ペレスはパレスチナ・ゲリラの恐怖攻撃を鎮めることができず、公の信頼は急速に低下していた。1996年3月3日、4日にパレスチナのテロリストは二度の自爆攻撃を行い、32人のイスラエル市民が死亡した。この攻撃がきっかけとなり、ペレスはテロリズムに対する無策が批判され結局選挙で敗北することとなる。ペレスと異なりネタニヤフはヤーセル・アラファートの好意を信頼せず、和平プロセスはパレスチナ自治政府の義務であるとし、テロリズムに対する断固たる姿勢を示した。彼のスローガンは「ネタニヤフ - 安全な平和を作る。」であった。
首相として彼はヤーセル・アラファートと交渉し、ワイ合意を成立させた。しかし多数の者がネタニヤフはパレスチナ自治政府との合意を遅らせようとしていると非難した。ネタニヤフの和平交渉へのアプローチは一般的な物であった。:
- "彼らが与えるならば - 彼らは得ることができる。彼らが与えない場合 - 彼らの得る物は無い。"
- "יתנו - יקבלו. לא יתנו - לא יקבלו"
このアプローチはうまくいくように思われた。前任者ペレスや後任者バラクと異なり、ネタニヤフの在任期間はパレスチナの自爆攻撃は少なく比較的平静であった。1996年にネタニヤフとエルサレム市長エフード・オルメルトは嘆きの壁のトンネルに出口を開くことを決定した。この決定はパレスチナ人による三日間の暴動の口火となり、十数人のイスラエル人と百人以上のパレスチナ人が死亡した。
対テロリズム政策の成功にもかかわらず、ネタニヤフは多くのエリートに嫌われ、メディアからは左翼と同一視された。一連のスキャンダル(彼の妻のゴシップを含む)と汚職に関する調査の後、ネタニヤフはイスラエルの大衆の支持を失った。
1999年の総選挙でエフード・バラクに敗北した後、ネタニヤフは、一時的に政治から身を引いた。
[編集] 2000年以降の政治活動
汚職事件から身をかわすため、ネタニヤフは政治の世界から一時身を引き、議員の職も同時に辞していたが、2000年9月27日、イスラエル最高検が、ネタニヤフ夫妻の立件を証拠不十分で断念する。 これを受けネタニヤフは、既に死に体となっていたバラク政権倒閣・復権に乗り出そうとするが、既にリクード党首の地位にあったアリエル・シャロンの方が役者が一枚上手で、翌日9月28日神殿の丘訪問でリクードの末端党員・右派陣営の心を完全に掌握してしまう。進退窮まったバラクは首相職を辞任・再選挙に打って出るが、議員の職にないネタニヤフは出馬を封じられ、選挙はシャロンの圧倒的勝利に終わる。 その後、首相のイスをつかんだシャロンとネタニヤフの関係は抜き差しならない状態となり、2002年5月にネタニヤフの傘下にあるリクード・中央委員会がパレスチナ国家反対決議を行うと、両者の溝は決定的になる。 2002年10月イスラエル労働党が政権を離脱、解散・総選挙の実施が決まり、リクード党首選が前倒しとなると、持論である「アラファト議長追放」「パレスチナ国家断固反対」掲げ、シャロンと激突する。 2002年11月の党首選でシャロンがネタニヤフに圧勝すると、対立劇はいったん収束する。 2003年1月の総選挙でリクードが勝利すると、ネタニヤフは外相から財務相に降格される。 2004年2月、シャロンがガザからの全面撤退を掲げた一方的婚約解消計画を発表すると、両者の対立が再燃する。シャロンは末端党員の支持を受けた上で計画の実現を画策するが、2004年5月に行われたリクードの党員投票では20ポイントもの差をつけられ撤退計画は拒否される。ネタニヤフは当然反対の意を示し、シャロンの腹心だったリモール・リブナット教育相もこれを境にシャロンから離反してしまう。撤退計画は、シャロンとネタニヤフの権力闘争という意味合いだけではなく、党内の強硬派と穏健派の対立、党是であった大イスラエル主義の是非と言った、古くて新しい問題を顕在化させてしまったのである。 党員投票で敗れたシャロンは、これを機にリクードへの不信感を募らせ、このことが翌年の集団離党・カディマ結党へつながっていくのである。一方的婚約解消計画は党員投票では否決されたものの、2004年10月、労働党の支持を得て国会で何とか通過させる。その際もリクードの40人の議員の内17人が造反。党は完全に分裂状態となる。 2005年8月7日、撤退計画の最終閣議決定の直前に、ネタニヤフは「ガザをテロリストの前線基地にする愚挙」として財務相を抗議の辞任、8月30日には本格的に倒閣運動に乗り出す。 しかしこれも、同年11月21日にシャロンらが集団離党する形で計画は頓挫する。ネタニヤフの決断が遅すぎたことと、シャロン以上に右寄りの政策を打ち出さなければならなかったことも、彼には不利に働いた。
大蔵大臣として、ネタニヤフはアル・アクサ・インティファーダの間にイスラエル経済回復のため大胆な計画経済を試みた。それは多数の論争の的となったが、計画はより多くの自由主義市場への動きを含んでいた。
[編集] リクード党首に再登板
2005年11月、シャロンやオルメルトが集団離党し、カディマの結成に動くと、不在になった党首の座をめぐり、党首選が前倒しとなる。翌月・12月19日、ネタニヤフは47%の支持を得て党首に返り咲く。しかし、シャロンらの離党・カディマの結成で中道票をこぞって奪われ、自身が掲げるサッチャー流の経済政策は、格差拡大を助長させると集中砲火を浴びる。2006年3月28日に行われた総選挙では、リクードは歴史的惨敗を喫する。わずか12議席に落ち込み、第4勢力にまで後退することとなった。そのため、リブナット前教育相などからは党首辞任を要求する声が出たが、大勢にはならず、ネタニヤフはその地位にとどまり、反撃の機会を窺っている。リクードの分裂は、党の弱体化を招いたものの、ネタニヤフの側近や党内強硬派は力を温存する純化路線を一方でもたらした。ただ、このところ支持は挽回傾向にあり、2006年8月に行われた世論調査ではオルメルト首相を抑え、次期首相候補のトップに立った。これは、オルメルト政権によるレバノン侵攻の失敗と、そのレバノン侵攻の際、ネタニヤフは一切政局にすることなく黙々と政権支持を貫いたこと。このことに国民が好感を持ったためである。婚約解消計画の際のシャロンへの執拗な糾弾がたびたび非難を浴びていたため、ネタニヤフもそれを意識していたものと思われる。2007年1月に地元紙が行った世論調査によるとネタニヤフが率いるリクードは現在選挙が行われれば、29議席を獲得し、第1党になるとの結果が出た。一方のオルメルト首相のカディマはわずか12議席との予測が出ており、現在はリクードが12,カディマが29の議席をそれぞれ得ているので、オルメルト政権は発足後1年もたたないうちに逆転を許したことになる。2007年11月の世論調査でもリクードの支持は落ちていない。
また、ここ数年脅威が高まるイランの核武装については、極めて強硬な立場で、メナヘム・ベギン元首相が1981年にイラクのオシラク原子炉爆撃を断行したバビロン作戦を引き合いに出し、イスファハーンなど核関連施設への先制攻撃も辞さない考えを示している。
2007年8月14日に行われたリクードの前倒し党首選で、73%の得票で再選される。
2007年9月19日地元テレビのインタビューで同月6日のイスラエル空軍によるシリアへの限定空爆を暴露。オルメルト首相に支持する旨を伝えていたことを明らかにした。空爆施設は、シリアが北朝鮮の協力の下、核開発を進めていた疑いがもたれている。 2008年1月10日、イスラエルを訪問したジョージ・ブッシュ大統領会談し、イランの軍事的脅威に対する意見交換を行った。
[編集] 著書
- 恒久的平和:イスラエルおよび国家 - A Durable Peace: Israel and Its Place Among the Nations(ワーナー・ブックス、2000年)ISBN 0446523062
- テロリズムとの戦い:民主主義国家はどのようにして国内および国際テロを打ち破ることができるか - Fighting Terrorism: How Democracies Can Defeat Domestic And International Terrorism(ダイアン・パブ社、1995年)ISBN 0788155148
- 『テロリズムとはこう戦え』ビニヤミン・ネタニヤフ〔著〕高城恭子〔訳〕落合信彦〔監修〕(ミルトス、1997年)ISBN 4895861317 http://myrtos.co.jp/pub/mp_book/tero.html
- 国家の場所 - A Place Among the Nations(バンタム、1993年)ISBN 0553089749
- テロリズム:西洋はどのように勝ち取ることができるか - Terrorism: How the West Can Win(ファラー・シュトラウス・アンド・ジロクス、1986年)ISBN 0374273421
[編集] 外部リンク
- Website of supporters of Benjamin Netanyahu: ヘブライ語 英語
- Benjamin Netanyahu on the definition of terror (BBC)(5 min.)
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