ベンジャミン・フランクリン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ベンジャミン・フランクリン(英:Benjamin Franklin、ユリウス暦1706年1月6日(グレゴリオ暦1706年1月17日) - 1790年4月17日)は、アメリカ合衆国の政治家、外交官、著述家、物理学者、気象学者。印刷業で成功を収めた後、政界に進出しアメリカ独立に多大な貢献をした。また、凧を用いた実験で、雷が電気であることを明らかにしたことでも知られている。米100ドル紙幣に肖像が描かれている。
勤勉性、探究心の強さ、合理主義、社会活動への参加という18世紀における近代的人間像を象徴する人物。己を含めて権力の集中を嫌った人間性は個人崇拝を敬遠するアメリカの国民性を超え、すべてのヤンキーの父として讃えられる。愛・地球博のアメリカ館出展で紹介されていたが、この大人物も日本人の多くには馴染みがなかったのは両国の文化の違いを表しており象徴的でもあった。『フランクリン自伝』はアメリカのロング・ベストセラーの一つであるが、裡俗に男女接合の回数論を書いたテキストの一つとしても有名。
目次 |
[編集] 家族と生い立ち
ベンジャミン・フランクリンの父親ジョサイア・フランクリンは1657年12月23日にイギリスのノーザンプトンシャー、エクトンで鍛冶屋および農民のトマス・フランクリンと妻のジェーン・ホワイトの間に生まれた。フランクリンの母親アビア・フォルジャーは1667年8月15日にマサチューセッツ州ナンタケットで製粉業者および教師のピーター・フォルジャーと妻のメアリー・モリス・フォルジャーの間に生まれた。
1677年頃にジョサイアはエクトンでアン・チャイルドと結婚した。彼らは3人の子供、エリザベス(1678年3月2日生)、サミュエル(1681年5月16日生)、ハンナ(1683年5月25日生)をもうけた。1683年の後半に夫妻はイギリスを発ちアメリカ合衆国のマサチューセッツ州ボストン市に向かった。
ボストンで夫妻は複数の子供をもうけた。ジョサイア・ジュニア、アン、ジョセフ、もう一人のジョセフ(最初のジョセフは生後間もなく死に、その名前が付けられた)。ジョサイアの妻アンはボストンで7月9日に死去し、ジョサイアは11月25日にアビアと再婚した。
[編集] 年譜
- 1706年1月6日(ユリウス暦)にボストンのミルク・ストリートで生まれた。父親のジョサイア・フランクリンは獣脂ろうそく製造を行っていた。ジョサイアは二度の結婚で17人の子供をもうけた。ベンジャミンはその15番目であった。
- 1716年ベンジャミンは10歳で学校教育を終えた、
- 1718年に『ニュー・イングランド・クーラント』紙を印刷出版していた兄のジェームズの徒弟となった。その後、次第に記者や編集者として頭角を現した。同紙の自由主義的論調により兄が投獄されたときは、代わりに発行人となったこともある。
- 1723年、兄と袂を分かち、フィラデルフィアにて印刷業に就いた。
- 1724年、知事の勧めによりロンドンに行き、植字工として働く。
- 1726年に帰国、印刷業を再開する。
- 1729年、『ペンシルバニア・ガゼット』紙を買収。
- 1731年、フィラデルフィアにアメリカ初の公立図書館を設立する。この図書館は成功を収め、これを規範にアメリカの他の都市にも図書館が開設されるようになった。
- 1734年、ウォーター・ストリートのタン・タヴァンのフリーメイソンリー(フリーメイソン)のロッジで、グランド・マスターに選ばれた。
- 1748年、印刷業をたたみ、公職に専念するようになる。ペンシルバニア植民地議員や郵便総局長をつとめた。
- 1751年、フィラデルフィア・アカデミー(後のペンシルバニア大学)を創設。
- 1754年に勃発したフレンチ・インディアン戦争ではイギリス軍のための軍需品調達に奔走した。
- 1757年、植民地の待遇改善を要求するためにイギリスに派遣された。このとき、彼の科学的な業績を称えオックスフォード大学にて名誉学位を授与されている。
- 1777年、アメリカ独立宣言の起草委員となり、トーマス・ジェファーソンらと共に最初に署名した5人の政治家のうちの1人となった。独立戦争中はパリの社交界を中心に活動し、欧州諸国との外交交渉に奔走。独立戦争へのフランスの協力・参戦と、他の諸国の中立を成功させる。
- 1778年4月7日 パリでヴォルテールをフリーメイソンリーに入会させる。
- 1790年4月17日、84才で死去。葬儀は国葬とされた。
[編集] 科学的業績・発明
フランクリンは科学に興味を示し、独学で様々な業績を残した。また、様々な発明を行った。
- ライデン瓶の実験を知り、電気に興味を持つ。1752年、雷を伴う嵐の中で凧をあげ、凧糸の末端にワイヤーで接続したライデン瓶により雷雲の帯電を証明するという実験を行った。また、雷の電気はプラスとマイナスの両方の極性があることも確認したといわれている。この命がけの研究結果によってフランクリンはロンドン王立協会の会員となった。この逸話は有名になったが、同じような実験をしようとして命を落とす者が出たため(フランクリンは事故を起こさないよう、かなり慎重に実験の準備を進めたことが明らかになっている)、現在はあまり紹介されない。
- 避雷針、フランクリンストーブとして知られる燃焼効率の良いストーブ、ロッキングチェアー、遠近両用眼鏡、グラスハーモニカなどを発明した。これらの発明に関する特許は取得せず、社会に還元した。
- 夏時間を考案したが、この時代には採用されなかった。
[編集] フランクリンの十三徳
- 節制 飽くほど食うなかれ。酔うまで飲むなかれ。
- 沈黙 自他に益なきことを語るなかれ。駄弁を弄するなかれ。
- 規律 物はすべて所を定めて置くべし。仕事はすべて時を定めてなすべし。
- 決断 なすべきをなさんと決心すべし。決心したることは必ず実行すべし。
- 節約 自他に益なきことに金銭を費やすなかれ。すなわち、浪費するなかれ。
- 勤勉 時間を空費するなかれ。つねに何か益あることに従うべし。無用の行いはすべて断つべし。
- 誠実 詐りを用いて人を害するなかれ。心事は無邪気に公正に保つべし。口に出ですこともまた然るべし。
- 正義 他人の利益を傷つけ、あるいは与うべきを与えずして人に損害を及ぼすべからず。
- 中庸 極端を避くべし。たとえ不法を受け、憤りに値すと思うとも、激怒を慎むべし。
- 清潔 身体、衣服、住居に不潔を黙認すべからず。
- 平静 小事、日常茶飯事、または避けがたき出来事に平静を失うなかれ。
- 純潔 性交はもっぱら健康ないし子孫のためにのみ行い、これに耽(ふけ)りて頭脳を鈍らせ、身体を弱め、または自他の平安ないし信用を傷つけるがごときことあるべからず。
- 謙譲 イエスおよびソクラテスに見習うべし。
[編集] 著書(日本語訳)
[編集] 関連項目
- フランクリン協会 (en:Franklin Institute) - フランクリンの遺産を元に設立された。
- フランクリン・プランナー - フランクリン・コヴィー社が発行するシステム手帳。フランクリンが実践していたライフプランの作成方法を参考につくられたプランニング・システム。
- サ・イラ - フランス革命歌
官職 | ||
---|---|---|
先代: - |
アメリカ合衆国郵政長官 1775年7月26日 - 1776年11月7日 |
次代: リチャード・バチェ |
先代: ジョン・ディキンソン |
ペンシルバニア邦知事 1785年10月18日 - 1788年11月5日 |
次代: トマス・ミフリン |
外交職 | ||
先代: - |
フランス駐箚アメリカ合衆国全権公使 1779年3月23日 - 1785年5月17日 |
次代: トーマス・ジェファーソン |
先代: - |
スウェーデン駐箚アメリカ合衆国全権公使 1782年9月28日 - 1783年4月3日 |
次代: ジョナサン・ラッセル |