ファイティング原田
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基本情報 | |
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本名 | 原田 政彦 |
通称 | 飢えたライオンの底力 |
階級 | フライ級 |
国籍 | 日本 |
誕生日 | 1943年4月5日(65歳) |
出身地 | 東京都世田谷区 |
命日 | |
死地 | |
スタイル | 右ボクサータイプ |
プロボクシング戦績 | |
総試合数 | 63 |
勝ち | 56 |
KO勝ち | 23 |
敗け | 7 |
引き分け | |
無効試合 |
ファイティング原田(ファイティングはらだ、本名・原田 政彦(はらだ まさひこ)、1943年4月5日 - )は、日本の元プロボクサーであり、現在はファイティング原田ジムの会長、日本プロボクシング協会の会長も務めている。東京都世田谷区出身。ラッシングパワーを武器に、世界フライ級・バンタム級の2階級制覇(日本人初)をした名王者。多くの専門誌が「歴代最も偉大な日本人ボクサー」として原田の名前を挙げている。リングネームとチャンス時のラッシュの激しさから誤解されがちだが、原田のボクシングスタイルはアウトボクシングを主体にする右のボクサータイプである。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] 19歳で王座奪取
1962年10月10日、弱冠19歳で世界フライ級王座に初挑戦。当時の世界フライ級王者の「シャムの貴公子」ポーン・キングピッチ(タイ)への挑戦が内定していた、同級1位の矢尾板貞雄が突然引退し、10位にランクされたばかりの原田に挑戦のチャンスが回ってきた。
蔵前国技館で行われた試合は、原田が左ジャブとフットワークでポーンをコントロールした。11R、相手コーナーに追い詰め、80数発もの左右連打を浴びせ、ポーンはコーナーロープに腰を落としてカウントアウトされた。新王者誕生に無数の祝福の座布団が舞った。しかし、3ヵ月後の1963年1月12日、バンコクで行われた再戦で、今度はポーンが試合巧者ぶりを発揮し、際どい判定ながら王座陥落。原田は減量苦から、この後、バンタム級に転向する。
[編集] "ロープ際の魔術師"との死闘
バンタム級に転向した原田は、1963年9月26日、"ロープ際の魔術師"の異名を持つ強豪、世界バンタム級3位・ジョー・メデル(メキシコ)と対戦する。5Rまでは、原田のラッシュが勝り一方的な展開。ところが、6R、原田の単調な動きを見切ったメデルに、得意のカウンターをヒットされ3度のダウンの末にKO負けした。原田はすぐに再起し、1964年10月29日、東洋王者・青木勝利に3RKO勝ちし、バンタム級世界王座への挑戦権を掴んだ。
[編集] "黄金のバンタム"に挑戦
世界バンタム級王者・エデル・ジョフレ(ブラジル)は、「ガロ・デ・オーロ(黄金のバンタム)」の異名通り、世界王座を獲得した試合、8度の防衛戦にいずれもKO勝ちし、その中には、青木勝利、原田にKO勝ちしたジョー・メデルも含まれていた。強打者であり、パンチを的確にヒットさせ、ディフェンスも堅い実力王者だった。原田の猛練習は、取材していた新聞記者が、疲労で床にへたり込む程の激しさだったと言う。ジョフレは妻と息子を連れて来日した。試合前の予想は、ジョフレの一方的有利、原田が何ラウンドまで持つか、という悲観的な見方がほとんどだった。
1965年5月18日愛知県体育館、開始のゴングを聞いた原田は、当初今までのボクシングスタイルを捨て、アウトボクシングに出た。かなりの大博打を打ったと言えるが、果たして原田はこの博打に勝った。原田のラッシュを予想した作戦を組み立てていたであろうジョフレに、明らかに戸惑いが見られ、その端正なボクシングに狂いが出始めたのである。そして、4R、ジョフレはリング中央で原田との打ち合いに応じたが、パンチにいつもの的確性がなく、原田のパンチが勝っていた。そして遂に、ジョフレ唯一の弱点である細いアゴを、原田の右アッパーが打ち抜いたのである。これでロープまで吹っ飛ばされたジョフレに、原田はラッシュを仕掛ける。だが、ジョフレもよく追撃打をブロックでしのぎ、次の5Rには、強烈な右をヒットし、原田はコーナーを間違えるほどのダメージを負った。だが、練習量豊富な原田は、次の回から立ち直り、終盤は一進一退の展開を迎える。そして遂に15Rの終了ゴングを聞いた。判定は、ジャッジ、日本の高田が72対70で原田、同じくジャッジ、アメリカのエドソンが72対71でジョフレ、そして、レフェリーのアメリカ人バーニー・ロスが71対69で原田、2対1のスプリット・デジションで原田は世界王座奪取に成功する。
日本側の関係者でさえ、どちらの勝ちかで割れた程に際どい勝負であった。レフェリーのロスは、現役時代、原田そっくりのラッシャーであり、それが原田に有利に作用したのでは、という噂もあったが、後の1966年5月31日、原田は2度目の防衛戦でジョフレと再戦、前回以上の差で判定勝ちし、完全に決着をつけた。
[編集] 減量苦との闘い
ウェートが増えやすい体質の原田には、デビュー当時から常に減量苦が付きまとった。フライ級のリミット50.8kgに対し、原田の体重は普段65kgを超えていた。試合が近づくとジムの水道は、シャワーの栓も含め、全て針金で固定され、封印された。つい、うっかり水を口にしないように、との配慮であるが、原田はこの時の減量地獄を「水洗トイレの水さえ飲みたくなった」と形容している。このため、フライ級でデビューした原田は、バンタム、フェザーと階級を上げていくことになった。
[編集] 幻の三階級制覇
1969年7月28日、WBC世界フェザー級王者ジョニー・ファメション(オーストラリア)への挑戦が決まった。王者の地元シドニーでの敵地開催。原田の圧倒的不利は否めない状況だったが、原田はこの試合で2R、11R、14Rと3度のダウンを奪ってみせる。中でも14Rに奪ったダウンは強烈で、このダウンで王者のファメションは半ば失神状態に陥っていた。誰の目からも10カウント以内に立ち上がれそうにないことは明白だったが、この試合のレフェリーを務めていた元世界フェザー級王者のウイリー・ペップは、あろうことかカウントを途中で放棄すると失神していたファメションを無理やり立たせ試合再開を促したのだった。続く15Rを王者は必死の防戦で逃げ切り勝敗は判定にもつれ込まれた。それでも3度のダウンを奪った原田の勝利は揺るぎないものと思われたが、ここでもレフェリーを務めたペップは判定の結果が出る前に両者の腕を上げた。つまり、「引き分け」で王者の防衛ということだった。この結果に、地元でありながら王者とペップにはブーイングの嵐が起こる。逆に判定に不服を申し立てることも無く、潔く健闘を称えあった原田には惜しみないスタンディング・オベーションが贈られるという始末だった。しかし、これだけでは終わらなかった。レフェリーのペップは「引き分け」という判定を下したが、この時の試合のジャッジもペップ自身が一人で務めており(※当時の世界戦のルールで、判定は開催地ルールにより下すと決められており当時の豪州コミッションは、主審=レフェリー1人で判定を下すと定められていた)、しかもスコアシートを採点した結果、なんと「原田の判定負け」という結果だったのだ。当時の地元スポーツ新聞にはリング上で失神している王者の写真がデカデカと掲載されていたことから、いかに地元オーストラリアにとっても不名誉な勝利であったかが伺える。結果として、超がつく地元判定に泣いた「幻の三階級制覇」だった。翌年、ファメションは王者の意地と誇りを賭けて今度は原田の地元東京まで飛んできて再戦(日本で行われた初のWBCタイトルマッチ)を行ったが、原田はいい所が無いまま14R KO負けし、この試合を最後に引退した。
[編集] 引退後
引退後は日本テレビ「ワールドプレミアムボクシング」(ほとんどは浜田剛史とのコンビ)などで解説者として活躍する一方、ファイティング原田ボクシングジムにて後進の指導にあたる。
1972年、毎日放送「変身忍者嵐」31話「妖怪人形!ドーテムの呪い!!」にボクサースタイルでゲスト出演した。
1974年、日本テレビ「傷だらけの天使」18話「リングサイドに花一輪を」にゲスト出演した。
1989年、日本プロボクシング協会の会長に就任した。
2005年1月、「高血圧性脳内出血」で倒れ、手術を受けたが、現在は回復している。2006年3月25日には、WBCバンタム級タイトルマッチ長谷川穂積VSウィラポン・ナコンルアンプロモーション戦のテレビ中継の解説者として、久々に元気な姿を見せた。
[編集] 主な戦績
深沢中学校卒業後、米穀店に勤務しながら猛練習で知られる笹崎ボクシングジムに入門。
- 1960年2月21日、4RTKO勝ちでプロデビュー。デビュー時の階級はフライ級であり、東日本新人王戦を順調に勝ち上がったが、準決勝において、同門でかつ大の親友でもある斎藤清作と当たる事になってしまった。結局、斎藤が「負傷」と言う事で出場を辞退した。後に、「たこ八郎」の名で、コメディアンとして人気者になった斎藤とは、その後も長く交友が続いたという。
- 1960年12月24日、東日本新人王決勝戦。やはりKOパンチャーとして売出し中の海老原博幸と対戦。序盤は原田のラッシュに、海老原が2度のダウンを喫したが、終盤には、海老原が後に「カミソリ・パンチ」と言われた左を再三ヒットして反撃、原田は何とか耐え抜き6回判定勝ち。この対戦は、後の世界王者同士の対決として、新人王戦史上に残る名勝負と言われている。
- 1962年5月3日、ノンタイトル10回戦に判定勝ち。デビュー以来25連勝を達成。海老原博幸、青木勝利とともに次代のホープとして「フライ級三羽烏」と称された。
- 1962年10月10日、世界フライ級王座に初挑戦。ポーン・キングピッチ(タイ)を11回2分50秒KOで破り、19歳で王座獲得。
- 1963年1月12日、ポーンとの再戦に判定で敗れ王座陥落、バンタム級に転向。
- 1963年9月26日、ノンタイトル10回戦で世界3位の強豪・ジョー・メデルに6RTKO負け。
- 1964年10月29日、ノンタイトル10回戦で東洋王者・青木勝利に3RKO勝ちし、世界再挑戦への道を開く。
- 1965年5月18日、世界バンタム級王座に挑戦。「黄金のバンタム」エデル・ジョフレ(ブラジル)に15回判定勝ちし、王座奪取。
- 1965年11月30日、初防衛戦。ビートルズの4人と同じリバプール出身のアラン・ラドキンを15回判定で破る。
- 1966年5月31日、2度目の防衛戦。前王者ジョフレを15回判定で下し防衛成功。
- 1967年1月3日、3度目の防衛戦。かつてKO負けたジョー・メデルとの再戦となるこの試合、前回メデルのカウンター攻撃に倒された原田は、足を使って、メデルのカウンターの射程圏外に出て、攻勢時には、身体を密着させてラッシュし、カウンターを封じた。原田の一方的なポイントリードで迎えた最終15R、メデルの左フックのカウンターが遂に命中し、一瞬ふらりとしたが、クリンチで何とか逃げ切り王座防衛。
- 1967年7月4日、4度目の防衛戦。ベルナルド・カラバロ(コロンビア)を15回判定で下し王座防衛。
- 1968年2月27日、5度目の防衛戦。ライオネル・ローズ(オーストラリア)に15回判定負けし王座陥落。バンタム級でも原田の減量苦は限界を超し始めており、以降フェザー級に転向。
- 1969年7月28日、WBCフェザー級王座に敵地シドニーで挑戦。王者・ジョニー・ファメション(オーストラリア)から3度ダウンを奪ったにもかかわらず15回判定負け。リングサイドで観戦していたライオネル・ローズも認める露骨な地元判定であった。
- 1970年1月6日、ファメションに東京で再挑戦するが14回1分9秒KO負け。もはやこの時、原田の肉体は消耗し尽くしており、この試合を最後に引退。
生涯戦績、63戦56勝(23KO)7敗。
[編集] エピソード
- 原田の師匠・笹崎〓(ささざき・たけし・〓はにんべんに「黄」1915年 - 1996年)・品川の笹崎ジム会長は、「日本ボクシングの父」と言われる渡辺勇次郎(1889年 - 1956年)の弟子であり、原田は、渡辺の孫弟子になる。笹崎はジムと同じ敷地で寄席を経営していた。
- 中村信一(中村ジム)会長は「マー坊の偉いのはあの我慢強さだ。あれは誰も真似できない」と言った。
- アメリカのスポーツ雑誌スポーツ・イラストレイテッド誌は、原田のラッシュを「狂った風車」と表現した。
- バンタム級時代の世界戦は、いずれもテレビ視聴率が60%前後を記録した。最高はジョフレ第2戦の63.7%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)。ボクシング中継#歴代視聴率上位を参照。
- 1966年5月に『ボクシング小唄』というレコードを発売している。
- クイズ番組のパイオニアともいうべき『アップダウンクイズ』(毎日放送系)で、番組の名コーナー「シルエットクイズ」の記念すべき第1号ゲストとして出演(1967年2月)。その後1983年9月25日には、司会を担当していた小池清アナウンサーが番組を退くに当たり、再びシルエットゲストを担当。そして1985年10月6日の同番組最終回では、番組の歴史を飾った1人としてクイズに臨んだ。
- 減量のエピソードは、「あしたのジョー」の力石徹の話として、水道の蛇口を針金で固定する下りがそのまま使われた。
- ライバルのエデル・ジョフレは原田の引退後に再起し、1973年5月WBCフェザー級王座についた。ジョフレの終身戦績は78戦72勝(50KO)2敗4引分で、敗北は原田に喫した2敗のみだった。ジョフレは、90年代に地元でエキシビジョンを行う相手に原田を指名したが、原田は断った。
- 「ジョフレに勝ったハラダ」は世界で知られ、海外の専門誌のバンタム級のオールタイムランキングにも名前が挙がる。また、1983年には、WBCが選んだ偉大なボクサー26人に、モハメド・アリらとともに選ばれた唯一の日本人である。(原田の世界バンタム級のタイトルは、WBA、WBCとも公認)。また名誉の殿堂「hall of fame」で顕彰されている唯一の日本人ボクサーである。
- カス・ダマトは、原田のビデオをマイク・タイソンに見せていた。1988年、防衛戦で来日したタイソンは、「ファイティング原田に会うのが楽しみ」と話したが、恰幅が良くなった原田を紹介されるまで気付かなかった。
- 解説などで「ボディ」を「ボデー」と言う。
- オーストラリアの競馬でG1を2勝するなど活躍しているHaradasun(ハラダサン)という現役競走馬は、ファイティング原田から名を取っている(「原田さん」の当て字)。