ヒサトモ
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ヒサトモ | |
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原語表記: | {{{原語}}} |
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品種: | サラブレッド |
性別: | 牝 |
毛色: | 鹿毛 |
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生誕: | 1934年4月23日 |
死没: | 1949年11月19日 (15歳没・旧16歳) |
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登録日: | {{{登}}} |
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父: | トウルヌソル |
母: | 星友 |
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生国: | 日本(千葉県成田市) |
生産: | 下総御料牧場 |
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馬主: | 宮崎信太郎/宮崎正義 |
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調教師: | 中島時一(阪神) |
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競走成績 | |
生涯成績: | 31戦16勝(地方5戦2勝) |
獲得賞金: | 9万8981円 |
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ヒサトモ(繁殖名:久友)は戦前活躍した日本の競走馬。牝馬として史上初の東京優駿大競走(現在の東京優駿(日本ダービー))制覇を達成したが、不遇の晩年を送り悲劇の名牝と呼ばれた。半兄に種牡馬として成功した月友、6代孫の牝系子孫にトウカイテイオーがいる。
目次 |
[編集] 戦績
ヒサトモは関西の騎手兼調教師の中島時一厩舎の所属で、デビュー前から東京優駿大競走を狙っていた。しかし中島には関東での調教免許が無かったため関東の大久保房松調教師に管理を依頼し、自身は騎手として携わる事にした。当時はまだ牝馬クラシックどころかクラシック路線も無く、京都農林省典4歳呼馬(菊花賞)と阪神優駿牝馬(オークス)が始まるのは翌年からである。その他1937年(昭和12年)の出来事と言えば、ウォーアドミラルのアメリカクラシック三冠達成や女傑コリーダの凱旋門賞連覇などがある。
3歳3月にデビューしたヒサトモは初戦こそ3着に敗れるが2戦目で勝ち上がると、3戦目も後の秋の帝室御賞典(現在の天皇賞)優勝馬ハツピーマイトを下してレコードで連勝。続いて古馬相手に2着に入り東京優駿大競走に挑む。ここで17頭立ての4番人気に推されたヒサトモは、従来の記録を8秒8も更新するレコード勝ちを収めた。牝馬が東京優駿大競走を制したのはこれが初の快挙であった。後にクリフジ・ウオッカも優勝しているが、牝馬の東京優駿大競走優勝馬は未だにこの3頭しかいない。なお、2着にも牝馬であるサンダーランドが入り、牝馬による1着・2着を飾ったが、これは史上唯一の記録である。
秋に復帰したヒサトモは秋の第1回帝室御賞典でハツピーマイトの3着に入ったものの勝ち切れないレースが続いた。しかし、4歳になって本格化したヒサトモはこの年16戦11勝の活躍振りで2度目の挑戦となった春の帝室御賞典としては再び3着に敗れたが、1番人気に推された秋の帝室御賞典を大差勝ちし、3度目の正直で大きな勲章を手に入れた。2着にも牝馬であるフエアモアが入り、東京優駿大競走に続いての牝馬で1着・2着を独占している。
[編集] 引退後
輝かしい競走実績を残したヒサトモだったが、この年一杯で繁殖入りするとその生涯は暗転してしまう。
繁殖牝馬としては仔出しが悪く、産駒成績も振るわないでいたヒサトモに対し、関係者が取った措置は競馬への復帰であった。当時の馬産の常識では繁殖牝馬に脂肪が付き過ぎると受胎率が下がると考えられており、競走に使う事によって脂肪を落とせば受胎できる体になるのではないかと、当時は年齢制限の無かった地方競馬で走らせる事になったものであった。もっとも、当時の競走馬不足などその他の要因もあったとは思われるが、当時は戦後間もなくの混乱期の上、また、戦争と敗戦のために馬資源が完全に枯渇しきっていたという事情などもあり、15歳の牝馬を競走に用いた事について、現在の価値観をもって関係者を批判することはできない。
15歳になったヒサトモは11年ぶりに当時復興したばかりの地方競馬で現役復帰し、1949年(昭和24年)10月31日の戸塚競馬場での復帰戦は5着。しかし、老いたとはいえ東京優駿大競走をレコードで牡馬を蹴散らせたヒサトモは、11月4日の2戦目には2着入線。次の開催地である柏競馬場に移動して前走から中3日のレースで勝利を上げている。なお、多くの記述がヒサトモは地方競馬で2戦と書いているが、実際には戸塚で2戦、その後に柏で3戦の計5戦を1ヶ月半の間に戦っており、柏では10日間の間に2勝を上げている。
ちなみに現在の感覚で見ればまったく過酷な話であるが、馬資源が極限まで欠乏していた当時の競馬の馬の使い方においては、他馬との比較では決して厳しい使い方とは言い切れない。この時代の地方競馬では、開催期間中は連日連闘を繰り返し2カ月間で20戦近く戦った馬もいるとされる。また連日連闘については当時は国営競馬でもよく見られる事であった[1]。
しかしその後、11月19日に柏競馬場での調教中に非業の死を遂げた(浦和競馬場という説もある)。歴代の日本ダービー優勝馬で調教中に死亡したのは第4回優勝馬のガヴアナー(骨折による予後不良)とこのヒサトモだけである。戦後の混乱期でもあったため、亡骸は行方知れずとなり墓も無い。また戦後ヒサトモが走った戸塚競馬場と柏競馬場も現存しない。
ヒサトモの最期は、競馬史に名を残す名馬の最期としては相応しくないものであった。しかしその後、ヒサトモの血は最後の仔であるブリューリボンにより細々と生き残り、ヒサトモの死から35年後の優駿牝馬をトウカイローマンが制覇、さらにトウカイローマンから7年後にはトウカイテイオーが無敗で東京優駿を制覇し、一族の無念を晴らした。ただ、同様の話であるテンポイントの祖母クモワカの伝貧事件と違い、ヒサトモはトウカイテイオーの6代母であるために話題に上ることは少ない。なお15歳6ヶ月での出走は、公式記録として現在まで残るものでは、2006年にオースミレパード(高知競馬所属)によって更新されるまで、長きに渡り日本のサラブレッド系の最高齢出走記録であり続けた。
[編集] エピソード
ヒサトモの日本ダービー制覇から37年の後、1974年の第41回東京優駿を中島時一の息子の啓之がコーネルランサーに騎乗して優勝し、日本初の父子二代ダービージョッキーとなる。
だが、中島父子は互いのダービー制覇を見ていない。息子の啓之は父時一のダービー優勝の時には生まれておらず、時一は戦争による競馬中断を最後に競馬の世界から離れ故郷広島で農業に従事し、以降は競馬場に戻る事無く、息子のダービー優勝を見る以前に没している。
[編集] 脚注
- ^ 現在は制度上中4日以上間隔をとらなければならないため、連日連闘は不可能になっている
[編集] 主な産駒
繁殖成績
- 玄孫にトウカイローマン(優駿牝馬(オークス) - GI)、トウカイタロー(新潟記念 - GIII)、来孫にトウカイテイオー(皐月賞 - GI、東京優駿(日本ダービー) - GI)、トウカイオーザ(アルゼンチン共和国杯 - GII)
[編集] 血統表
ヒサトモの血統 ゲインズバラ系(タッチストン系)/St.Simon5・5×4=12.50% | |||
父
*トウルヌソル Tournesol 1922 鹿毛 |
Gainsborough 1915 鹿毛 |
Bayardo | Bay Ronald |
Galicia | |||
Rosedrop | St.Frusquin | ||
Rosaline | |||
Soliste 1910 |
Prince William | Bill of Portland | |
La Vierge | |||
Sees | Chesterfield | ||
La Goulue | |||
母
*星友 Alzada 1923 |
Sir Martin 1906 |
Ogden | Kilwarlin |
Oriole | |||
Lady Sterling | Hanover | ||
Aquila | |||
Colna 1909 |
Collar | St.Simon | |
Ornament | |||
Nausicaa | Galinule | ||
Verte Grez F-No.19-b |
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