ナタリー・ドシー
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ナタリー・ドシー |
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基本情報 |
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ラテン文字名 | Nathalie Dechy |
国籍 | フランス |
出身地 | グアドループ島 |
生年月日 | 1979年2月21日 |
身長 | 178cm |
体重 | 63kg |
利き手 | 右 |
バックハンド | 両手打ち |
ツアー経歴 |
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デビュー年 | 1994年 |
ツアー通算 | 4勝 |
シングルス | 1勝 |
ダブルス | 3勝 |
4大大会最高成績 |
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全豪 | ベスト8(2005) |
全仏 | 3回戦(1998・99・2001-03・ 05・06) |
全英 | 4回戦(1999・2005) |
全米 | 4回戦(1998・2005) |
キャリア自己最高ランキング |
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シングルス | 11位 |
ダブルス | 8位 |
Template |
ナタリー・ドシー(Nathalie Dechy, 1979年2月21日 - )は、フランスの女子プロテニス選手。フランス領のグアドループに生まれる。2006年の全米オープン女子ダブルスで、ロシアのベラ・ズボナレワとペアを組んで優勝した。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。ベースライン・プレーヤーで、オーバーヘッド・スマッシュ(自分の頭の上から打つスマッシュ)を最も得意にする。自己最高位はシングルス11位、ダブルス8位。これまでにWTAツアーでシングルス1勝、ダブルスで2006年全米オープンを含む3勝を挙げている。(本記事は新聞の一般表記により「ドシー」で記述するが、「ドゥシー」「デシー」などの表記揺れも多い。)
ドシーは父親がテニスと数学の教師で、母親もスポーツの教師という恵まれた家庭に育った。1994年にプロ入り。1995年に高校を中退し、プロテニス選手に専念する。同年の全仏オープンで、地元フランス人選手として主催者推薦を受け、4大大会にデビューした。2000年から女子テニス国別対抗戦・フェドカップのフランス代表選手になる。同年に2つのトーナメントで決勝に進んだが、どちらも準優勝で止まった。2003年1月にオーストラリア・ゴールドコーストの大会でツアー初優勝を果たしたが、現時点ではこれがドシーの唯一のシングルス・タイトルである。彼女のこれまでの戦歴を通じて、シングルスでは優勝1度、準優勝3度に対し、準決勝敗退「15度」が目立ち、現時点では大事な場面での勝負弱さが課題となっている。
ナタリー・ドシーのこれまでのハイライトは、2005年全豪オープンでの準決勝進出である。この時ドシーは、4回戦で2004年全仏オープン優勝者のアナスタシア・ミスキナ、準々決勝ではスイスの実力者パティ・シュナイダーを破り、初めて4大大会のベスト4に勝ち残った。準決勝では第1シードのリンゼイ・ダベンポートから第1セットを 6-2 で奪ったが、第2セットのタイブレークを失い、最終第3セットでダベンポートに 4-6 と逆転されて決勝進出を逃した。全豪オープンで8強入りした2005年は、ウィンブルドンと全米オープンでも4回戦に進み、全体的に好調なシーズンを送った。
2006年度の序盤戦ではつまずき、全豪オープンでは初戦敗退に終わる。2月の東レ・パン・パシフィック・テニス2回戦で、第3シードのドシーは当年度から現役復帰を果たしたマルチナ・ヒンギスと対戦し、第1セットを 6-4 で先取したが、続く2セットを 5-7, 2-6 で失った。ドシーとヒンギスは、それ以前(ヒンギスがいったん現役を退く前の時期)にも4度の対戦があり、初対決は1998年全米オープンの4回戦だった。東レの2回戦は5年ぶりの顔合わせだったが、ドシーはこれでヒンギスに5戦全敗となった。シングルスではしばらく不調が続いたが、全米オープンの女子ダブルスでドシーはベラ・ズボナレワとペアを組み、カタリナ・スレボトニク(スロベニア)&ディナラ・サフィナ(ロシア)組を 7-6, 7-5 で破って初優勝を決めた。
2007年の全仏オープン混合ダブルス部門で、ドシーはアンディ・ラム(イスラエル)とペアを組んで優勝し、2つ目のグランドスラム・タイトルを獲得した。ドシーとラムは、決勝で前年度優勝ペアのネナッド・ジモンイッチ(セルビア)&カタリナ・スレボトニク組を 7-5, 6-3 で破って初優勝を決めた。
フランスの女子テニス界は、最近は非常に選手層が厚くなり、2006年に全豪オープンで宿願の4大大会初優勝を飾ったアメリ・モレスモ(ドシーと同じ年)をはじめ、4大大会2勝の実績を持つベテランのマリー・ピエルスなどが世界の上位で活躍している。ドシーは彼女たちに比べるとやや地味な存在だが、層の厚いフランス女子を代表する選手のひとりと言えるだろう。