トヨタ・カローラWRC
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
カローラWRC(Corolla World Rallycar)は、トヨタ自動車が世界ラリー選手権 (WRC) に出場するために開発した競技専用車である。
目次 |
[編集] 誕生の背景
カローラによるラリー活動は30年以上前の1974年から1977年までの間、2代目カローラをベースにしたTE27レビンで参戦していた経験はあったが、1987年に導入されたグループA規定の中、トヨタのラインナップに適合する車種はセリカしかなかったため、年を追うごとにコンパクトなボディを武器に戦力を上げていたライバルに対し、スペシャリティカーの定石に沿ったロングノーズ・ショートデッキスタイルのセリカでは、大半のラリーコースの特徴である道幅が狭く曲がりくねったコースで大きく水を開けられていた。
しかし、1997年にベース車種の生産台数が年間2万5000台以上に緩和されたワールドラリーカー規定が導入されると、大きく重いセリカの呪縛から逃れたトヨタは、同社の代表的な量産車であるカローラ(AE111型)をベースにしたラリーカー開発に着手。エンジンが同車種のファミリーにラインナップされた機種しか選択できない規定の中、トヨタは国際自動車連盟 (FIA) に同一メーカーのエンジンであれば搭載できる認可を取得。これによって、セリカで実績のあるターボエンジンと四輪駆動レイアウトをおさめることが可能になり、軽いカローラのボディにハイパワーエンジンのパッケージングで成功をおさめたTE27レビンさながらのマシンを求めていたトヨタ・チーム・ヨーロッパ (TTE) 代表のオベ・アンダーソンにとってはまさに願ってもない結果となった。
開発陣はダグベルト・レイラーを筆頭に、ミスファイアリングシステムを初めてWRCに持ち込んだミハイル・ロスマンら、成功をおさめたセリカの開発に携わった有能なエンジニアによって固められ、1996年初頭からプロジェクトはスタートし、一年後の1997年に待望の一号車が完成。当時、TTEと契約していたフレディ・ロイクスや、1995年以来の復帰となったディディエ・オリオールらによってテストが繰り返され、その年のWRCフィンランド・ラリーでデビューした。
[編集] 概要
プラットフォームは日本のマーケットでは8代目にあたるAE111型カローラと共有し、ヨーロッパ向けのハッチバックボディをベースにした。外観は日本のセダンよりもはるかにコンパクトに見えるが、コーナーでのトリッキーな挙動に憂慮して、ホイールベースは2,448ミリもあった。これは先のワールドラリーカー規定を見越して極秘裏にテストを進めていた6代目カローラのハッチバック版であるカローラFXベースのラリーカーで得られたデータを参考にしたものと思われる。
特徴的なフロントマスクは、セリカの大きなエンジンベイにおさめられたターボユニットを搭載するため、日本マーケットにラインナップしていたカリブ・ロッソと同様の愛嬌のある丸いヘッドライトを用いたものから一転、かつてのランチア・デルタ・インテグラーレさながら、冷却能力を向上させるための無数のエアスクープが設けられ、より戦闘的な顔付きに変わった。また、ショートボディに起因する高速コースでのトリッキーな挙動の安定化を狙って、フロント、リアにはエアスポイラーが設けられていたが、デビュー初年度の1997年モデルでは一体成型だったフロントスポイラーは、未舗装路でのラリーでの損傷が激しいことから、翌1998年の開幕戦モンテカルロからは分割タイプに変更された(写真のモデルは変更を受けた1998年以降のタイプを装着)。
エンジンはセリカで実績のある3S-GTE型ユニットを引き続き使用し、エンジン本体はカローラの小さなエンジンベイにおさめるため、25度 後方に傾けて搭載されていた。その結果、重量配分は通常は60対40とフロントヘビーだったものの、リアのトランクに設置されている燃料タンクが満タンだった場合、54.4対45.6にまで変化したほか、インタークーラーが空冷式に改められたことによって、セリカよりも軽快なハンドリングを持つことに成功した。エンジンはその後も年を追うたびに改良が加えられ、1998年の終盤戦サンレモでは軽量コンロッドを組み込んだスペックの投入を皮切りに、1999年のポルトガルラリーからアルテッツァ用の挟角ヘッド(ただし、可変バルブタイミング機構は外されている)を載せた新バージョンに代わっていった。
駆動方式は無論、四輪駆動だが、デビュー当初はリアデフ直前に設けたクラッチの圧着で前後のトルク配分を変化させるセリカ時代に実績のあるトルクスプリット4WDシステムを採用していたが、1999年にはライバルチーム同様に、前後、センターともに電子油圧制御によるシステムに変更された。
センターデフを内蔵するギアボックスは、セリカ時代に引き続きイギリスのXtrac製だが、新たにジョイスティックと呼ばれる電子油圧制御のセミオートマチックトランスミッションが搭載された。これは現在のラリーマシンのセミオートマチックギアボックスの嚆矢ともいうべきもので、緊急用のシフトレバーとは別に、ステアリング右脇にある小さなスティック状のレバーで操作ができ、従来のドグミッションよりも100分の1秒の短縮につながるとともに、クラッチ操作の減少によって、ドライバーの疲労軽減にもつながったことから、それ以降、スバルを始め、ほとんどのワークスマシンに取り入れられていった。しかし、現在のマシンの圧縮空気を用いたタイプではなく、油圧で強制的にギアシフトをしていたため、デビュー当初はトラブルが頻発して実戦では取り外されることが多く、ワークス2台がほぼ全戦を通じて使い始めたのは熟成が進んだラストシーズンの1999年に入ってのことだった。また、ワークス撤退後も開発が続けられた2000年には有力プライベーター向けにジョイスティックの他、通常のパドルシフトも新たに加えられた。
こうした新機軸が取り入れられたものの、パワートレーンを実績のあるセリカのコンポーネンツで固めたため、信頼性も高く、それがどのコースでもオールマイティな速さを支えていたといえるかもしれない。
[編集] WRCでの活躍
トヨタの期待を一身に受けて登場したカローラWRCだったが、従来のセリカが10勝以上を上げていたのに対し、1998年と1999年シーズンを合わせても、わずか3勝に留まった。
その大きな原因は足回りにあった。カローラWRCの開発が始まった1999年は、ワールドラリーカー規定が混乱していた時期であったため、十分な開発項目を仕様に盛り込むことができなかった。そのため、より長いサスペンションストロークを持つライバルに対し、どの路面でも劣る感は否めず、ワークスで走っていたカルロス・サインツ、ディディエ・オリオールともに、後年カローラについて「決して運転しやすいとは言えなかった」と述べている。それらの反省を踏まえ、TTEは2000年バージョン開発に際し、ストロークを拡大したサスペンションとパワーアップしたエンジンを投入する予定であったが、トヨタ本社は1999年限りでWRCからの撤退を決定したため、それらのコンポーネンツ投入も頓挫してしまった。
しかし、その後も細かな開発は続けられ、2000年はTTEのセカンドチームであるイタリアのプライベーター、グリフォーネから参戦したブルーノ・ティリーは、モンテカルロでワークス相手に5位に入ったほか、ハリ・ロバンペッラがフィンランドでコリン・マクレーと接戦を繰り広げた末、3位に入る活躍を見せた。