スブタイ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
スブタイ、スベエデイ(Sübe'edei, Sübütei. 1176年 - 1248年)はチンギス・ハーンの家臣。ウリャンカイ部の出身で、同じくチンギスのもとで活躍したジェルメの弟。四狗の一人。漢文では「速別額台」(スベエデイ)や「速不台」(スブタイ)とも表記され、ペルシア語資料では سوبداى بهادر Sūbdā'ī bahādur として表れる。名は釈迦如来十大弟子のひとり、須菩提にちなんだもの。
スブタイの出身であるウリヤンカイ(Uryangqai, 兀良哈など)とは、元来中国東北部北部からシベリア南部にかけての森林地帯に住む狩猟民の凡称であったとみられている(後世になっても李氏朝鮮が女真族など北方ツングース系諸集団をオランケの呼称で呼んでいるという用例が知られる)。そのうち、12世紀頃にモンゴル高原に進出した一派がモンゴル諸部族の隷属集団として組み込まれたようで、『元朝秘史』の伝承によればブルカン岳周辺に先住し、モンゴル部族の遠祖ボドンチャル・ムンカクの頃に征服されてこれに隷従したとある。また『元史』「速不台伝」によればチンギス・カンの五世の祖であるトンビナイ・セチェンの時代に従属関係を結んだ事が述べられており、ジャライル部族と同様に最も早い時期にモンゴル部族集団と従属関係を結んだ、有力かつ大きないわゆる「譜代の隷臣」の部族集団であったと考えられている。
スブタイは武勇に優れた猛将で、『元朝秘史』によると、チンギスが即位する以前にタイチュウト氏、ジャムカと袂を別かった時にチンギス側に帰順した部将たちのひとりに数えられているのが初出である。
1216年にメルキト族追討に派遣され、戦死したメルキト王トクトア・ベキの世嗣たちを討ち取るなど功績を挙げた。1219年秋、チンギスの大西征に従い、本営である中軍に近侍し、ついでサマルカンドから逃亡したホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・ムハンマドを追撃した。これは取り逃がしたものの、その後ジェベとともに各々1万騎を率いてアラーウッディーン捜索のためホラーサーンからエルブルズ山脈南麓を経由してイラン西北部、イラク、アゼルバイジャン、グルジアの各地を劫略し、カフカース山脈を越境。ロシア平原など東欧に進出して、カルカ河畔においてキエフをはじめとするルーシ諸侯の大軍勢を打ち破るという大功を挙げている。
1227年のチンギスの死後もオゴデイに従って宿老として活躍し、1232年のトルイ指揮下で左翼軍団の千戸長として従軍し、汴京(開封)陥落など金の滅亡戦でも功績を挙げた。その後は1236年にはじまるバトゥのヨーロッパ遠征に副司令格として本営・中軍の宿将として従軍し、さらに功績を挙げたが、オゴデイの死とともにヨーロッパ遠征軍が帰還すると隠退し、グユク治世の1248年、生地のトウラ河畔にあったウリャンカイ部の牧地において72歳で死去したという。