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オゴデイ - Wikipedia

オゴデイ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

オゴデイ
オゴデイ

オゴデイÖgödei、Ögedei. 1186年 - 1241年12月11日 在位1229年9月13日 - 1241年12月11日)はモンゴル帝国の第2代モンゴル皇帝(カアン大ハーン)。モンゴル帝国の君主で初めてカアンと名乗った人物とされる。

漢語表記では窩闊台、月闕台など。資料によっては、哈罕皇帝/合罕皇帝(カアン皇帝)とも書かれる(後述)。ペルシア語表記では اوگتاى قاآن Ūgtāy Qā'ān と綴られる。オゴタイエゲデイ は俗称。元朝によって贈られたは英文皇帝、廟号太宗[1]

チンギス・ハーンの三男。母はボルテジョチチャガタイの弟、トルイの兄。

目次

[編集] 経歴

[編集] 即位以前

父・チンギスに従ってモンゴル統一や遠征、大西征に従った。特に大西征においてはホラズム・シャー朝の討伐で戦功を挙げ、その功績によりナイマン部の所領を与えられた(オゴデイ・ウルス)。オゴデイにはジョチとチャガタイという2人の有能な兄がいたが、ジョチは出生疑惑をめぐるチャガダイとの不和から、チャガタイは気性が激しすぎるところからチンギスから後継者として不適格と見なされていた。オゴデイは温厚で、一族の和をよくまとめる人物であったため、父から後継者として指名されたのである。

1227年の父の死後、モンゴル内部では末子相続の慣習に従ってオゴデイの弟でチンギスの末子に当たるトルイを後継者に求める声があった。これは、慣習だけではなくトルイ自身が智勇兼備の名将であったうえ、周囲からの人望も厚かったこと、父時代に立てた多数の武勲などが要因であるが、トルイはこれを固辞してあくまで父の指名に従うと表明し、1229年9月13日クリルタイでオゴデイはチャガタイやトルイの協力のもと、第2代モンゴル皇帝に即位することとなったのである、この時から「カアン」の称号が贈ら用いられることになったという。

[編集] 皇帝として

オゴデイの即位
オゴデイの即位

その後、オゴデイは父の覇業を受け継ぐべく、積極的な領土拡大を行なった。1232年にはトルイの活躍で金の名将・完顔陳和尚率いる金軍を壊滅させ、1234年までに金を完全に滅ぼした。

さらに1235年、首都としてカラコルムの建設を行い、同地でクリルタイを開催。南宋方面とキプチャク草原からルーシ東欧に至る西方遠征の二大遠征と、あわせて高麗カシュミールへの遠征計画を決議した。南方遠征については、総司令として中央軍を三男のクチュに任じて山西経由で南下させ、次男コデン率いる西路軍を陝西四川方面へ派遣しこれを征服させた。1236年からは甥でジョチ家の当主であったバトゥを総司令官とし、功臣スブタイを宿将としつつ長男グユクトルイ家の当主モンケなど各モンゴル王家の後継者クラス王族たちを派遣し、ヴォルガ・ブルガールキプチャク諸部族、カフカス北部、ルーシ諸国、ハンガリー王国(アールパード朝)、ポーランド王国(ピャスト朝)など東欧の大半までを制圧するに至った。しかし、南宋に送り出した遠征軍は、皇太子のクチュが陣中で没したために失敗に終わった。

内政面においては父時代からの大功臣・ウイグル人財務総監チンカイマフムード・ヤラワチ耶律楚材らを重用し、全国に駅伝制を導入して領土が拡大した帝国内の連絡密度を高めた。またオルホン河畔に首都・カラコルムを建設し、農耕地、都市部の管轄のために中書省を設けた。しかし相次ぐ対外遠征や新首都建設などからの財政悪化、さらには急激に拡大しすぎた領土間の連絡が密に取れず、次第に帝国の一族間における分裂などが顕著になったこと、そして何よりもオゴデイの長男・グユクとバトゥの対立が決定的となって一族間に不和が生まれたことなどが、オゴデイの晩年には大きな癌となってしまった。

さらに、『集史』などによれば、後継者最有力候補であった三男クチュが早世したため、オゴデイはチンギスのように自分の息子から後継者を指名せず、孫のシレムンを後継者としていたという。しかし、シレムンは未だ若年であり、壮年の王族はオゴデイの息子たちはもとよりはことなく、ジョチ家やトルイ家、チャガタイ家にも大勢いた。オゴデイは即位の時にオゴデイ裔に皇位継承権が固定されるよう各王家に誓詞(möčelge)を提出させていたという。

1241年12月7日に「大猟」を催し、同月10日にウテグ・クラン山というところで幕営して深夜まで飲酒に興じていたが、翌朝、1241年12月11日に寝床で絶命していたという。過度の酒色で健康を害して死去してしまったと『集史』や『元史』などでは述べられている。享年56。死後はチンギス、ボルテと同じく起輦谷に葬られた。

オゴデイは生前、後継者としては3男のクチュを指名していたが、不幸にも1236年2月に早世し、それ以外の息子(グユク以外)のほとんどは早世してしまった。このため、生前はクチュの長男シレムンを後継者とし、あるいは甥にあたる、トルイの長男モンケを後継者として考えていたらしい。しかしオゴデイの死後、皇后のドレゲネによる巧みな政治工作でグユクが第3代ハーンに選出されたのである。

[編集] 人物・逸話

  • オゴデイの治世晩年は後の帝国分裂の要因となる癌が多く発芽したが、急激に帝国領を拡大し、偉大なる父の覇業を見事に受け継ぐことにも成功している。偉大な父を持つ2代目は坊ちゃん育ちで国を傾かせる者が多い中で、オゴデイは理想的な2代目であったといえる。
  • 大変な酒豪であったといわれる。

[編集] モンゴル皇帝オゴデイ・「カアン」

  • 次代を継いだ子のグユク・ハンがローマ教皇インノケンティウス4世に宛てた1246年11月上旬の日付けを持つ親書がバチカンに現存するが、書簡中でグユクは祖父チンギスと自らを「 جنكيز خان Chingiz khān(チンギス・ハン)」と「 خان khān(ハン)」とそれぞれ称しており、父オゴデイには「 قاآن Qā'ān(カアン)」という称号で呼んでいる。同様の書き分けは1260年に書かれたジュワイニーの『世界征服者史』や14世紀初頭のラシードゥッディーンの『集史』などのモンゴル帝国時代のペルシア語資料にも見られ、さらに華北の漢語やウイグル文字、クビライ治世以降のパスパ文字などによるモンゴル語碑文資料にもこの種の書き分けが見られる。恐らくオゴデイはチンギス・カン以前の一般的な王号「ハン/カン」に優越する「皇帝」号に類する称号として新たに「カアン」号を採用したと思われるが、次代のグユクはこれを父オゴデイの専用と考え自らは「ハン/カン」のままに留めたと考えられる。しかしモンケは再び「モンゴル皇帝」としての「カアン」号を復活させたようで、以後クビライ家の独占するところとなったチンギス・ハン家の宗主である「モンゴル皇帝」=大ハーン位にあった全ての人物は「 Qā'ān(カアン)」の称号で呼ばれている。オゲデイはモンゴル皇帝で「カアン」号を称した最初の人物と目される。オゴデイ治世中に華北の全真教や仏教寺院などに建立された碑文には「窩闊台皇帝」以外に、「哈罕皇帝/合罕皇帝」(カアン皇帝)とも書かれており、父のチンギス・カンが「成吉思皇帝」、息子のグユクがグユクも「谷由皇帝」と名前がそのまま音写されて呼ばれたことと対照的に、「カアン」単独で呼ばれている。これらのことから、13世紀前半にモンゴル帝国内外で「カアン」といった場合、特にオゴデイを指していたと思われる。

詳細はハンに関する項目に譲るが、「オゴデイ・カアン」ないし「オゴデイ・ハーン」は正しいと言えるが、「オゴデイ・ハン」ないし「オゴデイ汗」などの記述は誤りである。

[編集] 宗室

系譜情報については『集史』などイルハン朝ティムール朝時代の資料に準拠。漢字表記は『元史』「后妃表」による。

[編集] 妻妾

オゴデイの皇后のうち、大ハトゥンは4人いたとされる。 皇后

  • ボラクチン(正宮 孛剌合真皇后)
    • キョルゲネ(乞里吉忽帖尼三皇后)チンギスから相続。
  • ドレゲネ(脫列哥那六皇后)
  • ムゲ(昂灰二皇后)
  • ジェジン

その他側室

    • オルクナ[2](業里訖納妃子[3]

[編集] 子息

息子たちについては『集史』『元史』ではともに7人とする。

  • 長男 グユク
  • 次男 コデン
  • 三男 クチュ[4] シレムンの父
  • 四男 カラチャル
  • 五男 カシ(カシダイ) カイドゥの父
  • 六男 カダアン・オグル
  • 七男 メリク

[編集] 脚注

  1. ^元史』巻七十四 祭祀志上 序言 によると、クビライ至元元年十月(1264年10月22日 - 11月20日)、大都の太廟に「七室之制」が定められた時、イェスゲイ、ホエルン以降のチンギス・カンをはじめとするモンゴル皇帝、王族、皇后妃に対して尊諡廟號が追贈され、オゴデイにも「英文皇帝」の諡と「太宗」の廟号が設けられた。
  2. ^ カダアン・オグルの生母。
  3. ^ メリクの生母。『集史』編纂後に書かれたイルハン朝後期の資料『バナーカティー史』ではオルクナはカダアン・オグル、メリク両名の生母とする。
  4. ^集史』「オゴデイ・カアン紀」などによるとオゴデイ存命中に後継者とされたが、総司令として次兄コデンらとともに派遣された南宋遠征中に陣没(1236年2月)。オゴデイは後継者の地位をその遺児シレムンに与えたという。

[編集] 関連項目


先代:
チンギス・ハーン
モンゴル帝国大ハーン
1229年~1241年
次代:
グユク


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