ステン短機関銃
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イスラエルの博物館に展示されているステンMk.2 |
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ステン短機関銃(下記スペックはMk.2に準ずる) | |
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種類 | 軍用短機関銃 |
製造国 | イギリス |
設計・製造 | エンフィールド王立造兵廠、バーミンガム・スモールアームズ社など |
口径 | 9mm |
銃身長 | 196mm |
ライフリング | |
使用弾薬 | 9mmパラベラム弾 |
装弾数 | 32発 |
作動方式 | オープンボルト・ストレートブローバック |
全長 | 760mm |
重量 | 3.18kg |
発射速度 | ~500発/分 |
銃口初速 | 365m/s |
有効射程 | 46m(50ヤード) |
ステン短機関銃(すてんたんきかんじゅう "Sten Submachine Gun")は、イギリスで第二次世界大戦中に開発された短機関銃である。単に「ステン・ガン」"Sten Gun"の名称でも知られる。
極限まで簡易化された単純設計の廉価な小型短機関銃で、大量に生産され、連合軍やレジスタンスの主力小火器として、第二次世界大戦を通じて用いられた。
目次 |
[編集] 開発経緯
[編集] ダンケルク撤退とバトル・オブ・ブリテン
第二次世界大戦初期の1940年、ナチス・ドイツ軍によるフランス侵攻作戦で敗北したイギリス及びフランス軍の残存部隊は、同年5月以降、イギリス本土への撤退作戦を開始した(いわゆるダンケルク撤退)。多大な犠牲を払いつつも、イギリス軍は10万人のフランス兵を伴った撤退に成功した。
しかしこの撤退に際し、イギリス軍・フランス軍が使用していた武器・弾薬などは撤退時の混乱などから多くを置き去りにせざるを得ず、イギリスまで逃れた英仏軍の兵士たちの多くが無装備状態であった。従ってこれを補うため、廉価な小火器の大量供給が強く求められていた。
しかし1940年7月以降、ドイツ空軍の英国上空侵攻が始まり、英国側は厳しい防衛航空戦を強いられる(いわゆる「バトル・オブ・ブリテン」)。イギリス空軍の奮戦によって侵攻は食い止められたものの、イギリス国内の軍需工場や施設などもかなりの損害を受け、英国における兵器生産にも障害が生じた。このような厳しい状況に対し、生産手法の新たな打開策が求められた。
[編集] ステン短機関銃の登場
1941年に入り、英国軍はロンドンの北部にあった国営兵器工場・エンフィールド王立造兵廠に、扱いやすく生産性の良い短機関銃の開発を要請した。
エンフィールド造兵廠の技師であるレジナルド・V・シェパードとハロルド・J・ターピンは共同で新型短機関銃の開発にあたった。開発にあたって彼らが参考にしたのは、特にイギリス軍がフランスから撤退したときに鹵獲したドイツ軍の短機関銃「MP40」であった。MP40は当時における最先端の短機関銃であり、銃としての性能自体もさることながら、鋼板プレス部品の多用など、それ以前の短機関銃とは隔絶した生産合理化策が加えられた、極めて斬新な銃だった。シェパードとターピンらはMP40を徹底的に調査・分析した。
その内容も踏まえ、従前では考えられないほどの特異な合理化設計を図った結果、1941年6月に試作銃を完成させた。特徴の一つは、使用弾薬にMP40短機関銃と同じく、ドイツ軍の制式拳銃弾である9mmパラベラム弾を使用したことであった。
しかしこの銃を有名にしたのは、もう一つの特徴「外見」であった。ブローバック撃発方式のこの銃は、円筒状ボルトを同じく円筒状のレシーバーに収めた構造を用いていたが、その外見たるや、さながら水道管用の金属パイプに銃身と引き金と弾倉を取り付けたかのような、不格好で奇怪な姿だったのである。生産性向上のため工作省力化を重視した結果ではあったが、機能美に優れたMP40とはおよそ正反対の代物で、いかにも外見より実質を重んじるイギリスらしい兵器ではあった。
このいささか珍妙な姿の銃は、二人の技師の頭文字(SとT)と、エンフィールド造兵廠の頭文字であるENを合わせ「STEN」(ステン)と名づけられた。イギリス政府はさっそく、大手銃器メーカーのBSA社(バーミンガム・スモール・アームズ)にステン短機関銃の量産を依頼した。
8月に入るとBSA社は試験的に25丁生産し軍に納品された。その後9月、10月と生産を増やしていき、後に付近の町工場やカナダの兵器工場などでも生産が開始された。これによってイギリス軍は歩兵兵器の再整備を図ることができたのである。
[編集] ステンのバリエーション
ステン短機関銃には全部で6種類がある。
- ステンMk.1…初期生産タイプ。生産工程や銃の材質など問題多発したため動作不良が多かった。
- ステンMk.2…ステンMk.1の欠点を改良。銃自体の耐久性は向上したが装弾不良は未改善。第二次世界大戦中最も生産された(総生産数約20万丁)。
- ステンMk.2(S)…ステンMk.2に消音サイレンサーを装着させたタイプ
- ステンMk.3…ステンMk.1の機関部を更に簡易化したもの。おもにフランスなどのレジスタンスに供給された。
- ステンMk.4…空挺部隊向けに生産されたモデルで銃床(ストック)を回転して折りたたむ事により全長を短くできた。この設計はドイツの機関銃を参考にしている。
- ステンMk.5…ステン短機関銃の最終生産型モデル。木製グリップ・銃床を採用。銃剣の装着が可能
- ステンMk.6…ステンMk.5に消音サイレンサーを装着させたタイプ
後半になるとドイツ軍の敗退が続き、生産に余裕が出てきたのか、ステンMk.5以降はそれまでのパイプ型銃床から木製の銃床に変更している。
[編集] ステン短機関銃の長所と問題点
ステン短機関銃のセールスポイントは、並外れた安さと生産性の良さにあった。簡易設計であるため町工場でも生産しやすかったうえ、生産価格は1挺あたりわずか2ポンド半に過ぎず、廉価に膨大な量を供給することができた。また使用弾薬がドイツ軍の短機関銃と同じ9mm弾であったため、ヨーロッパ戦線ではドイツ軍からろ獲した弾薬をそのまま使用することができた。
しかし一方で、銃自体の品質は悪く、初期型から撃発トラブルを多発させた。30発入りの複列弾倉は、弾丸を満杯に装填されると送弾不良を起こすため、現場では5発~10発程度少なく装填せねばならなかった。また工作不良も多く、新品のステンを支給されたらまずはヤスリ掛けを加えて調整しなければならない、とまで言われたこともある。加えてハンドグリップなどを省略していたため保持しにくく、射撃時には前方下に紐を通し、それを左手で握って撃つように考えられていたというが、非常に不安定で、結局兵士たちは、機関部横から突き出した弾倉を握って射撃していた場合が多かった。弾倉を持ってステンガンを発射する風景は、戦争映画でもしばしば見受けられる。しかし、弾倉を握ると、マガジンリップの機関部への接し方が変動し、装弾不良を誘発するため、この構え方は推奨されていない。
不格好でトラブルメーカーのステンガンにあきれた兵士たちは、この銃を嫌って「ウールワース・ガン(有名安売りスーパーの名前に引っ掛けた蔑称)」、「ステンチ・ガン(クサい銃)」、「鉛管工のお気に入り」などと揶揄した。問題の解決には最終型であるステンMk.5の登場を待たなければならなかった。
[編集] レジスタンスとドイツ軍
供給先としてイギリス軍はもちろん、当時ドイツ軍に対しゲリラ攻撃を行っていたフランスほかヨーロッパ諸国のレジスタンスに対しても、盛んに供給された。小型軽量なステンガンは持ち運びやすく隠しやすいため隠密行動に適し、また通常はバランスの悪さで嫌われる水平弾倉も、ゲリラ攻撃で多いシチュエーションである伏射の場合には嵩張らず適していた。しかも弾丸はドイツ軍装備の収奪で賄えるなど、レジスタンスが使うには多くの面で好都合だったのである。中にはポーランドのブリスカヴィカ短機関銃のようにレジスタンス組織がステンを基に独自改良型のサブマシンガンを設計した例もある。
大量に供給されたことから、ドイツ軍の手に落ちる機会も多く、ドイツ軍がステンガンを捕獲して半制式的に使用した例もある(仮称:MP749短機関銃)。ドイツでコピー生産された例もあるが、ドイツ設計の短機関銃に比して明らかに性能の劣るステンガンをわざわざ生産する必要性は通常であれば乏しく、おそらくは何らかの謀略工作用か、あるいは大戦末期の戦況悪化に伴う生産能力の低下に対応するために用いられたものと考えられている。実際に製造されたものとしては、前者を目的としたMk.2の完全コピー品「Gerät Potsdam」、後者を目的とした弾倉がMP40互換の「MP3008」が知られている。
[編集] ステンガンの影響
ステン短機関銃は大量に生産されたことと、最終タイプがそれなりに優秀であったため、1950年代までイギリス軍で使用されたが、1953年以降、後継型でより設計の優れたスターリング・サブマシンガンの制式採用に伴って現役を退いた。
しかし、極限まで単純化された設計は生産性の良さなど魅力も大きく、後続の多くのサブマシンガンに影響を与えることになった。アメリカ合衆国のM3グリースガンはその早い例である。第二次世界大戦後には、スウェーデンのカールグスタフm/45やホービア・サブマシンガンなど亜流の銃も少なからず生まれている。