ジョージ・ゴーディエンコ
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ジョージ・ゴーディエンコ(George Gordienko、1928年1月7日-2002年5月13日)は、カナダ・マニトバ州ウィニペグ出身の元プロレスラー、画家。
いわいる「最強伝説」を持つ史上屈指の実力者だが、後述する理由によりプロレス史の表舞台に立つことはなかった。日本でのキャッチコピーは『岩石男』。必殺技はブロックバスター。
[編集] 経歴
18歳の時に地元でその天性の怪力とレスリングの才能を見込まれてスカウトされ、ミネソタ大学に進学、在学中の1947年にミネアポリスでデビュー。しかし恋人の影響で共産主義の活動に参加、赤狩りの対象となり国外退去処分となってしまう。「将来の世界王者」と期待されていたゴーディエンコにとって、米国からの追放はキャリアが絶たれたものと同意義だった。
帰国後、画家としての道を志すが生活は苦しく、結局リングに復帰。彼の評判を聞いたスチュ・ハートに呼ばれカルガリーに拠点を移し、シュートレスリングの達人にして史上屈指の名コーチでもあったスチュの指導を受ける。1953年、カナダに遠征した時のNWA世界王者ルー・テーズに挑戦、互角の勝負を繰り広げ、テーズにその実力を後々まで絶賛される。その後は世界を巡ってありとあらゆるリングに上がったが、アメリカには入国することは叶わなかった。全盛期の試合としては1959年に行われたイギリスで行われたビル・ロビンソンとの連戦が名高い。1968年に初来日して国際プロレスに参戦。カナダ、ヨーロッパ、日本、ニュージーランド、更には中東やインド、パキスタンまであらゆる国で戦い、ダラ・シンやボロ一族(アントニオ猪木と戦ったアクラム・ペルーワンなどが有名)などとも対戦した。ドイツではかのローラン・ボックとも対戦して勝利したとされる。
1976年、ボックとの試合中に足首を骨折して引退。その後はロンドンに移住して画家としての活動に専念し高い評価を受ける。2002年にカナダで死去。
スチュやテーズ、ラッシャー木村を始め、直接肌を合わせた多くの実力派選手たちから「彼こそが最強」と言わしめ、また流智美など当時前線で取材していた関係者からもゴーディエンコ最強説が聞かれる。その特殊な遍歴ゆえに試合の映像はごくわずかしか残っていないが、逆にそのことが彼の幻想をより一層高めているともいえる。