コンスタンティウス2世
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コンスタンティウス2世(Constantius II, 317年8月7日 - 361年11月3日)は、ローマ帝国の皇帝(在位337年 - 361年)。当初は帝国を3分割して東方を担当したが、353年に単独の統治者になった。キリスト教を優遇し猜疑心の強さから粛清をよく行なった。
[編集] 生涯
イリリクムにおいてコンスタンティヌス1世と2度目の妻ファウスタ(マクシミアヌス帝の娘)の間に3兄弟の次男として生まれるが326年に異母兄クリプスがファウスタと密通したとの告発があり、コンスタンティヌスはクリプスを裁判にかけて処刑した。数ヶ月後、この告発は虚偽で、その出所が明らかにファウスタであるとして、ファウスタも処刑された。
宦官が取り仕切る宮廷内で他の兄弟とともに育てられ、324年に副帝の称号を与えられ337年に死去した父親の葬儀はコンスタンティノープルで行われたが、滞在地の距離から彼一人が参加した。葬儀のしばらく後で、コンスタンティノープルにいる親族はいとこにあたるガルス、ユリアヌスだけを残して粛清されることとなる(首謀者はおそらくコンスタンティウス2世)。この後、3人の息子は会談を行い揃って帝位に就き帝国を3分割して即位した。彼は東方を担当してペルシアの攻撃に対処した。
その後、兄のコンスタンティヌス2世は340年に死に、コンスタンス1世も将軍マグネンティウスの反乱で殺された。コンスタンティウス2世はガルスを軟禁状態から解放し、副帝に指名し、自らはマグネンティウス討伐に向かう。ドナウ河畔のムルサでの会戦でマグネンティウスは敗走し、イタリアへ逃げ帰る。コンスタンティウス2世は、マグネンティウスがイタリアに閉じこもっているうちに、スペインと北アフリカを占領。追いつめられたマグネンティウスは自殺してコンスタンティウス2世は帝国を再統一した。
しかし、猜疑心の強さから354年にガルスに謀反の嫌疑をかけ処刑して翌355年にユリアヌスを副帝に任命してガリアへ派遣した。帝国東方でペルシア軍が進攻してくると、コンスタンティウスはユリアヌスに兵の供出を要求。これに対し、ユリアヌス配下の兵が反対し、ついにはユリアヌスを皇帝へ推戴した。板ばさみとなったユリアヌスはついに皇帝になることを承諾する。
それに対してコンスタンティウス2世は、ペルシアと和睦してアンティオキアを発ち、ユリアヌス討伐に向かうが道中で361年に病死する。臨終の際,後継者としてユリアヌスを指名した。享年45。
[編集] 関連作品
[編集] 外部リンク
- DiMaio, Michael, and Robert Frakes, "Constantius II," De Imperatoribus Romanis site.
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