カール・イェッセン
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カール・ペトロヴィチ・イェッセン(ロシア語:Карл Петрович Иессенカールル・ピトローヴィチュ・イェーッスィェン、1852年‐1918年)は、ロシア帝国の海軍軍人。日露戦争ではウラジオストク巡洋艦隊を率いて通商破壊戦を行ったが、蔚山沖海戦で敗れた。
[編集] 経歴
デンマーク系。ロシア帝国支配下のラトビアに生まれる。1869年、海軍士官学校に入学。水雷科や砲術の教育を受ける。1890年の黒海艦隊の水雷艇「アードレル」艦長を皮切りに、蒸気船「ネヴァ」、巡洋艦「アジア」艦長を歴任。1897年、大佐に昇進。1898年、新造され太平洋に回航される装甲巡洋艦「グロモボイ」艦長として極東に赴任。
日露戦争勃発直前の1904年2月に少将に昇進し、旅順港にある第1太平洋艦隊副司令長官及び巡洋艦隊司令官に任命される。開戦後、ステパン・マカロフ司令長官によりウラジオストクにある3隻の装甲巡洋艦を基幹とする巡洋艦隊司令官に任じられ、旗艦「ロシア」に着任。
3月末に砕氷艦を使い出港が可能になると、ウラジオストクを根拠地に朝鮮半島沿岸の日本海で精力的に通商破壊戦を繰り広げる。軍の輸送船や商船を撃沈し、対馬にまで出撃したときには日本の砲艦2隻を撃沈した。3月末、瓜生外吉少将率いる巡洋艦隊と交戦し互いに損害を出すが、勝敗はつかなかった。この戦功により第四等聖ゲオルギー勲章を受章。しかし同時に極東総督エヴゲーニイ・アレクセーエフにより一日の行程範囲外への出撃を禁止された。
旅順艦隊が黄海海戦に敗れた4日後の1904年8月14日、蔚山沖海戦で上村彦之丞中将率いる優勢な巡洋艦隊と交戦して装甲巡洋艦「リューリク」を失った。しかしリューリク救出を諦めなかったため敵将や自軍から賞賛を受けた。この戦闘で艦隊主力であった一等巡洋艦がすべて大きな損傷を受けたため、ウラジオストク艦隊は残りの戦争期間中実質的に活動できなくなった。旅順陥落後の翌年1月2日に、ほぼ壊滅した第1太平洋艦隊巡洋艦隊司令官に任命される。6月、ウスリー河川艦隊に転属。
終戦後バルチック艦隊と逆のコースで太平洋からバルト海への回航を行う。1906年、敗戦の責任を負わされ左遷されたが、海軍長官の交代により1908年に名誉を回復されてバルト海艦隊副司令官。しかし翌1909年にニコライ・フォン・エッセンがバルト海艦隊司令官に就任すると、中将を以て退役。その後はリガでドイツ企業の造船所監督を務め、1913年にはノヴィーク級駆逐艦建造を請け負う。
サンクトペテルブルクで死去。
[編集] 外部リンク
- 略歴 (ロシア語)