エレン・ジョンソン・サーリーフ
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エレン・ジョンソン・サーリーフ(Ellen Johnson Sirleaf, 1938年10月29日-)は西アフリカのリベリア共和国の現大統領である。アフリカ初の選挙で選出された女性大統領であり、アフリカの女性国家元首としては、ギニアビサウのカルメン・ペレイラ大統領代理に続いて二人目である。「鉄の女」とも呼ばれている。
アメリカ合衆国のジョージア州アトランタにチャールズ・サーリーフら、4人の息子や6人の孫達がいる。
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[編集] 経歴
[編集] 生い立ち
1938年にリベリアの首都モンロビアにおいて、ゴラ族 (Gola) とアメリコ・ライベリアンとの間に生まれた。彼女の祖父の一人はドイツ人である。1948年から1955年にモンロビアの西アフリカ大学 (College of West Africa) で経済学を学んだ後、17歳でジェームズ・サーリーフと結婚。その後、1961年にアメリカに渡り、1970年コロラド州のコロラド大学ボルダー校、1964年にウィスコンシン州マディソンのウィスコンシン大学マディソン校、そして1969年から1971年までハーバード大学で経済学を学んだ。
[編集] リベリア帰国後
リベリアに帰国後はホイッグ党のウィリアム・R・トルバート大統領の元で財務相になるが、1980年にサミュエル・ドゥ軍曹率いる反アメリコ・ライベリアンの部族出身の軍人らが軍事クーデターを起こし、トルバート大統領を暗殺、アメリコ・ライベリアンのホイッグ党は崩壊した。ドゥは、1984年に自らリベリア共和国大統領を宣言した。また、ドゥはトルバートに仕えていた何人かの高官を処刑しているが、彼女はケニアに逃亡する事に成功した。1983年から1985年の間、彼女はケニアのナイロビでシティバンクに勤務している。その後1985年に一時帰国した際、彼女はドゥ政権に対する批判をした為に自宅監禁の下に置かれ、刑務所での10年の刑を宣告された。しばらくして解放された後、彼女は再びシティバンクのケニアのナイロビ支社で勤務し、合わせて(ワシントン州のHSCB)赤道銀行の副総裁として活躍した。 1989年に、ドゥ政権に反旗を揚げたチャールズ・テーラー率いるリベリア国民愛国戦線(NPFL)が内戦を起こすと、はじめ彼女はテーラーを支持していたが、その後はNPFLと一線を画した。1990年9月9日、NPFLから分派したプリンス・ジョンソン率いる分派勢力がドウを捕らえ処刑した。1992年から1997年に彼女はアフリカのために国連開発計画の相互貸借地域センターの補助管理者として務めた。
1997年に彼女はリベリアに帰国して選挙に立候補し、地滑り的に75%もの得票数を得たテーラー大統領に次ぐ10%の得票を得た。2003年の選挙では、彼女は有力な候補者として議論に上っていたが、結局多くのグループは中立的立場のジュデ・ブライアントを暫定的大統領として選んだ。彼女は国家再建任務のトップに就任している。
その後の2005年の選挙においては、対抗馬である元サッカー選手のジョージ・ウェアに対して積極的な選挙活動を行った。選挙結果については一連の混乱はあったものの、2005年11月23日に勝者宣言してリベリアの大統領としての地位が確認された。 2006年1月16日の大統領就任式にはコンドリーザ・ライスアメリカ合衆国国務長官やジョージ・W・ブッシュ大統領のローラ・ブッシュ夫人などが出席した。
[編集] 外部リンク
- President Ellen Johnson Sirleaf
- Biography: Ellen Johnson-Sirleaf, Liberia's 'Iron Lady'
- Johnson-Sirleaf, Ellen - President of Liberia
- Liberia: Ellen Johnson Sirleaf
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