アルフレート・フーゲンベルク
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アルフレート・ヴィルヘルム・フランツ・マリア・フーゲンベルク(Alfred Wilhelm Franz Maria Hugenberg、1865年6月19日 - 1951年3月12日)は、ドイツの実業家、政治家。ドイツ国家人民党(DNVP)党首。1933年に成立したアドルフ・ヒトラー内閣で経済相と農相を兼務した。
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[編集] 概要・経歴
1865年6月19日ハノーヴァー出身。父カール・フーゲンベルクは、プロイセン王国の国会議員を務めた人物である。フーゲンベルクは、ゲッチンゲン大学、ハイデルベルク大学およびベルリン大学で法律学を、シュトラスブルク大学で経済学を学んだ。1981年超国家主義団体汎ドイツ連盟 Alldeutscher Verbandを共同設立した。1900年またいとこに当たるゲルトルート・アディッケスと結婚した。
フーゲンベルクは当初、官界に入り、プロイセンの官僚となったが、1907年実業界に転じた。フーゲンベルクはフランクフルト・アム・マイン鉱業銀行支配人に就任し、次いで1909年クルップに重役として招聘され、銀行業務や鉄鋼関係を担当し、1918年まで財務・経理取締役会議議長を務めた。この間、1916年には、フーゲンベルク・コンツェルンを創設した。フーゲンベルク・コンツェルンは、メディア支配に乗り出し、1920年代初頭には右翼・保守系出版業界に強い力関係を持つようになる。1927年には映画会社ウーファ社長となり、さらに新聞、広告業界の支配権を獲得し、フーゲンベルク・コンツェルンは傘下に約150社を従える巨大財閥に成長した。
ドイツ帝国時代には、ブルジョワ自由主義政党である国民自由党に所属していた。第一次世界大戦後の1918年ドイツ国家人民党(DNVP)に入党する。同党は、ユンカーと重工業資本家の利益を代表する右翼的、保守反動的な政党であり、フーゲンベルクは実業界、産業界代表としてこの政党に参加した。国会議員となったフーゲンベルクは、1928年国家人民党の党首に就任する。
フーゲンベルクは彼の前任者であったクーノ・フォン・ヴェスタープ伯爵よりもさらに党を右旋回させることになる。フーゲンベルクはワイマール憲法体制を批判し、より急進的な国家主義、民族主義に傾斜していった。元来、国家人民党は保守帝政派を多く抱えていたが、フーゲンベルク自身は君主制に否定的であり、彼が党首に就任したことにより多くの保守帝政派は離党し、保守人民党(Konservative Volkspartei、KVP)を結成した。
1929年世界恐慌が起こると経済危機と共産主義の台頭を恐れた産業界を代弁するフーゲンベルクは、ヒトラー率いるナチス党に接近し、ナチスとの間に協力関係を構築し、パウル・フォン・ヒンデンブルクの下、大統領内閣として成立したハインリヒ・ブリューニング内閣を攻撃した。しかし、1932年6月ブリューニング内閣が崩壊すると、フランツ・フォン・パーペンに協力し、同内閣では国家人民党系の無所属右派が入閣している。パーペン内閣が倒れ、クルト・フォン・シュライヒャー将軍の内閣が成立すると、再びナチスとの提携に動き、1933年1月30日ナチスと国家人民党など保守派の連立により第一次ヒトラー内閣が成立した。フーゲンベルクは経済相兼農林食糧相としてヒトラー内閣に入閣した。巷間知られるようにこの内閣にはナチス党員は首相のヒトラー、内相ヴィルヘルム・フリック、無任所相ヘルマン・ゲーリングの3名しか入閣せず、閣僚のほとんどを保守帝政派が占めていた。パーパン、フーゲンベルクらはヒトラーを牽制し、ナチスを抑制できると確信していたが、ドイツ国会議事堂放火事件を契機にナチスは反対勢力を駆逐し、1933年3月全権委任法を成立させ一党独裁体制を確立した。1933年6月フーゲンベルクは経済相・農相を解任され失脚した。国家人民党も解散を余儀なくされた。さらにフーゲンベルク・コンツェルン傘下の各メディアも強制的に売却され、結局、ナチスの支配下に入ることとなる。第二次世界大戦中は、ほとんど実質的影響力を失っていた。戦後、イギリス軍によって身柄を拘束された。1951年3月12日死去。
[編集] 受賞歴
- ドイツ帝国鷲記章(Adlerschild des Deutschen Reiches、1943年)
[編集] 関連項目
- クルップ
- ウーファー (映画会社)
- ドイツ国家人民党
[編集] 外部リンク
- アルフレート・フーゲンベルクに関する文献案内 - ドイツ国立図書館 (DNB) のカタログ
- フーゲンベルクの経歴(ドイツ語)
- ナチスの時代からのスローガン](ドイツ語)
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