アライド・フォース作戦
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アライド・フォース作戦 (Operation Allied Force) とは、北大西洋条約機構 (NATO) 加盟諸国がコソボ戦争中に実施した航空攻撃を主とする作戦で、この大規模な空爆を日本ではコソボ空爆、または同盟の力作戦と呼ぶ。
ユーゴスラビア連邦共和国(旧ユーゴスラビア)の首都であるベオグラードやコソボ、モンテネグロの軍事施設に限定された攻撃であったが、NATOはセルビア系による民族浄化など不法行為を根拠にユーゴスラビアの全域を攻撃の対象とするようになった。そのため、ユーゴ空爆とも呼ばれることがある。
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[編集] 背景
詳細はコソボ紛争を参照
NATOの目的は当初からコソボのアルバニア系住民をユーゴスラビアの武装警察や民兵から保護し、コソボの自治権を奪還させることであった。アメリカ合衆国は会談期限が切れるまでに合意に達しなかった場合の武力行使を示唆し、これを支持するイギリスを中心としたNATO加盟諸国はイタリアとマケドニア共和国に軍を展開させた。1999年3月15日にパリで行われた2度目の和平交渉が行き詰ると、NATOは攻撃を決定し、航空攻撃の主力はイタリアに駐留する第5戦術航空軍 (5th Tactical Air Force) が任ぜられた。
第5戦術航空軍はイタリアに展開する航空機約270機の他に、アドリア海に展開したアメリカ、イギリス、フランス、イタリア、ギリシャなどの国から派遣された多国籍艦隊も指揮下に入った。この多国籍艦隊は、アメリカ海軍の空母セオドア・ルーズベルト、巡洋艦ヴェラ・ガルフ、レイテ・ガルフ、水陸両用即応群の強襲揚陸艦キアサージの他、イギリス海軍の空母インヴィンシブル、フランス海軍の空母フォッシュと駆逐艦9隻、フリゲート10隻、潜水艦3隻からなっていた。
[編集] 経過
[編集] 概要
NATOが攻撃を決定する前後からイタリアに進出する航空機は増加の一途をたどり、多国籍艦隊の航空機を含めればアライド・フォース作戦が開始された1999年3月24日の頃には1000機以上になっていた。他にもアメリカとイギリス本国から戦略爆撃機が出撃し、空爆に参加した。攻撃の対象はセルビアの防空部隊と重要な軍事施設の破壊に振り向けられたが、天候に恵まれず効果は薄く、それは湾岸戦争やイラク戦争で行ったような精密爆撃に程遠いものでもあった。攻撃の主力となったのはアメリカ空軍であったが、イギリス空軍も多数の支援航空機を派遣した。また、第二次世界大戦で敗戦したドイツの空軍もNATOの一員として戦闘に参加した。空爆の開始から一週間経過した後もセルビア系による民族浄化が進められ、国際連合はコソボのアルバニア系難民が850,000人に達したことを4月に発表した。一方でセルビア側はアルバニア系難民の増加はNATOの爆撃に起因するものであると主張した。
4月になるとNATOはコソボへの地上部隊侵攻を検討しはじめた。冬装備の準備やギリシャとアルバニアの港湾から侵攻ルートに至る道路の整備を行うには時間が少なく、編成は急を要した。そして、アメリカ合衆国大統領のビル・クリントンは、その兵力の多くがアメリカに依存することに消極的であった。同じ頃、フィンランドとロシアの外交チームはソロボダン・ミロシェビッチ大統領に譲歩するよう説得を繰り返した。ミロシェビッチ大統領が同意する6月まで空爆は続けられた。
[編集] 1999年3月末
作戦は、3月24日の早朝、アメリカ空軍所属のB-52のJDAM・GPS誘導爆弾による空爆と、アメリカ海軍艦とイギリス潜水艦スプレンディッドの、CALCMとトマホーク巡航ミサイルによって開始した。作戦開始時の攻撃目標は、ユーゴスラビア共和国の空軍基地や防空に関わる重要な領地、軍司令部などであった。その後攻撃に参加した11カ国の軍用機も参戦し、大規模な空爆を行った。全攻撃グループは、アメリカ空軍所属のF-15、F-16、F/A-18、フランス空軍所属のミラージュ2000による護衛を受けていた。
それらの航空戦力に対抗すべく、ユーゴスラビア軍第127航空連隊所属のMiG-294機が迎撃のため緊急発進した。それに対しアメリカ空軍所属のF-15Cが、AIM-120、AIM-7を発射し、緊急発進した4機のうち2機のMiG-29を撃墜している。また、同日の夜には、オランダ空軍の第322飛行隊所属のF-16Aにより、MiG-29の一個編隊を迎撃、1機のMiG-29を、AIM-120による正面攻撃で撃墜している。
3月26日の昼間には、F-15がAIM-120を発射し、2機のMiG-29を撃墜している。
3月27日から28日にかけての夜には、アメリカ空軍所属のF-117がSA-3の大量攻撃により撃墜されている。パイロットは射出座席で脱出、後に救助されている。
[編集] 1999年4月
3月末から4月にかけて、アメリカ空軍のB-52とB-1Bが、追加戦力としてイギリスに到着した。4月1日には、100機以上の軍用機が、ユーゴスラビア共和国に向けて飛び立ち、空爆を行った。4月2日には、B-1Bが作戦の開始から初めて攻撃に参加、巡航ミサイルによりユーゴスラビア共和国内務省のビルに大きな損害を与えた。4月7日から4月8日にかけては、アメリカ本土から飛び立ったB-2がさらなる攻撃を行った。4月半ばにかけては、C-130やC-17Aなどの大型輸送機が、コソボの難民数百人に対し、食料やキャンプなどをアルバニアへ向け輸送している。
4月24日の記者会見でNATOは、ユーゴスラビア共和国所属の75機の軍用機を破壊し、航空優勢を確保したと発表している。
4月末には、F-117やF-15Eなどのアメリカ空軍所属の戦闘爆撃機が、ユーゴスラビア全域に対する攻撃を行っている。
[編集] 1999年5月
5月2日夜に、アメリカ空軍所属のF-16Cが飛行中、SAMに命中し墜落したが、パイロットは脱出している。その後、脱出したパイロットは、セルビア軍による激しい攻撃の中、アメリカ空軍のヘリコプターによって救出された。
5月4日には、B-52が出撃、コソボのセルビア軍に対し絨毯爆撃を行った。また、同日の夜、アメリカ空軍所属のF-16CJが、AIM-120を発射し、1機のMiG-29を撃墜した。
5月7日には、B-2がベオグラード市内に出撃、誤って中国大使館をJDAM爆弾で攻撃し、29人の死傷者を出している。後に緊急会議が開催され、NATOなどは中国に対し謝罪したが、当時中国はセルビア側を支援していたため、故意に破壊したのではという観測も報道された。
[編集] 空爆に対する批判
この空爆は、そもそもユーゴスラビアが和平交渉において、合意文章に調印しなかったために起きたものだが、ユーゴ政府が調印しなかった理由として、和平交渉の期限切れる直前にアメリカが提出した付属文章B(アネックスB)の存在がある。 その内容は、「コソボのみならずユーゴスラビア全域でNATO軍が展開・訓練でき、なおかつ治外法権を認めよ」という、ユーゴスラビアの占領化を意味するようなものであった。 空爆終了後、このアネックスBの存在が公表され、ドイツなどではメディアに公開されなかったことを問題視したという(そもそもNATOの中でもアメリカとイギリス以外は空爆に消極的、又は否定的だったといわれていた)。
[編集] その後
KFORも参照
6月12日に平和維持部隊 (KFOR) がコソボに到着した。NATOの地上部隊を基礎にした平和維持部隊は戦闘の備えもあったが、実際に戦闘することはなかった。西からはイギリス陸軍(第4機甲旅団、第5空挺旅団)、フランス陸軍、ドイツ陸軍が進出し、アメリカ陸軍、アメリカ海兵隊、イタリア陸軍、ギリシャ陸軍(第501機械化大隊)などは南から入った。
[編集] 参考文献
- 「スミソニアン 現代の航空戦」原書房 2005年5月15日
- 「悪者見参 ユーゴスラビアサッカー戦記」木村元彦 集英社 2000年3月
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- U.S.DoD - NATO Operation Allied Force, www.defenselink.mil(英語)
- GlobalSecurity.org - Operation Allied Force, www.globalsecurity.org(英語)
- NATO Official Homepage - Operation Allied Force, www.nato.int(英語)
- frontline: war in europe - facts & figures, www.pbs.org(英語)
- Crisis in Kosovo, www.imcnews.com