アシュトンテイト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アシュトンテイト(英: Ashton-Tate Corporation)は、dBASEデータベース製品で知られたアメリカ合衆国のソフトウェア企業。1991年9月、ボーランドに買収された。アシュトンテイトの製品だった dBASE と InterBase は今も開発・販売が続けられている。dBASE Plus はRAD環境として dataBased Intelligence, Inc. が販売している[1]。InterBase はボーランドが開発・販売を継続している[2]。
目次 |
[編集] 草創期
後にアシュトンテイトの母体となった企業は George Tate と Hal Lashlee が設立した Software Plus で、ソフトウェアの通信販売の小さな会社だった。1980年、Vulcan と呼ばれる新しいデータベースプログラムのユーザーからの電話を受け、その製品を売ったらどうかと助言された。
Vulcan の作者 Wayne Ratliff は、JPLで使われていた UNIVAC 1106 上の JPL/DIS というプログラムを参考にしてこれを作った(JPL/DISの作者は Jeb Long)。CP/M上で Vulcan が完成すると、Ratliff は広告を出して販売した。しかし、思ったように売れなかったため広告をやめていた。
Tate と Lashlee は新しい会社で Vulcan の販売とマーケティングを行うことを Ratliff に提案した。Ratliff は会社名の変更を条件としてこれに合意した。Lashlee は自分の名前を表に出すことを好まなかったため、Hal Pawluk が架空の Ashton という名前を考え、これに George Tate の姓を組み合わせてアシュトンテイトという名称が決められた。後に George Tate はインコを飼い、それにアシュトンと名づけた。Vulcan という名称は商標として問題があったため、これも dBASE II に改められ、$695 で販売されることになった(dBASE I という名称は不安定な印象があるとして避けられた)。同社はすぐに Ratliff と Long を雇うことになった。
関係データベースとしてマーケティングされたものの、dBASE はエドガー・F・コッドの定義する関係モデルに適合していなかった。とはいうものの、dBASE は当時としては非常に先進的であった。CP/Mマシン上では初めての複数ファイル製品であり、そのプログラミング環境を使えばほとんどどんなアプリケーションも構築できたのである。当時のマシンはメモリや補助記憶装置の容量が貧弱だったが、それにも関わらず dBASE を使って多数の中小規模のタスクを自動化することができた。dBASE は WordStar や VisiCalc と並ぶ当時のキラーアプリケーションとなった。
Ratliff のバージョンは CP/M 上で動作していたが、Jeb Long は1982年、これを新たにリリースされた IBM PC に移植した。彼は自動変換プログラムを使って、CP/M Z80アセンブリ言語コードをIntel 8088アセンブリ言語に変換して使った。これによって同社が長年に渡ってソースコードの保守問題に悩まされることになるのだった。ハードディスクの大容量化と低価格化が急激に進み、dBASE II は爆発的な売り上げを記録する。IBM PC 版発売の翌年、アシュトンテイトは株式公開にこぎつけた。
1984年、アシュトンテイトの年間売り上げは4000万ドルとなり、そのほとんどが dBASE とその関連ツールによるものだった。マイクロソフトとロータスと並んで、アシュトンテイトは1980年代前半の勝ち組ソフトウェア企業となった。George Tate を初めとして、アシュトンテイトの創業時の従業員にはサイエントロジー信者がいた。
[編集] CEO交代
1984年8月10日、George Tate は40歳で心筋梗塞で亡くなった。1982年2月にアシュトンテイトに重役として参加した David Cole が暫定CEOとなったが、1984年10月29日には辞任。その後 Cole はジフデービスに移り、Ed Esber Jr. がCEOとなった。Ed Esber は初期の表計算ソフト VisiCalc のマーケティングを担当していた人物で David Cole が雇った人材だった。Esber は米国におけるパーソナルコンピュータ用ソフトウェアの販売経路を作り出した人である。
彼のリーダーシップの下、アシュトンテイトはソフトウェア企業として三本の指に入るまでに成長した。彼の在任した7年間はアシュトンテイトの黄金期でもあり、売り上げは4000万ドルから3億1800万ドルへと 600% 以上の成長を見せた。
dBASE のオリジナルの作者 Wayne Ratliff と Esber の関係は騒々しいものだった。最初のころ、彼らが話し合ったとき、Esber は企業がチームであり、Ratliff も警備員も重要性に差が無いことを説明しようとした。当然、Ratliff にとって面白い話ではなかった。dBASE の新バージョンをC言語で開発することが決まると、Ratliff は数ヵ月後に同社を辞めた。Ratliff は同社の営業担当者を引き抜いて Migent という競合会社を立ち上げ、Esber は Migent がアシュトンテイトの営業秘密を不正に利用しているとして訴えた。Ratliff は後にアシュトンテイトへの復帰を申し出た。
[編集] dBASE III
主力製品の新バージョン dBASE III は保守性と移植性を高めるためC言語で書かれた。しかし、その副作用として性能が低下したことが懸念材料となったものの、ハードウェアが高性能化していったため、問題とはならなくなっていった。
dBASE III+ はキャラクタベースのメニューシステムを導入したが、1986年にリリース直後に手直しが必要となった。同社は冷静にこれに対処し、影響を被った顧客企業の間でかえって評判を高める結果となった。dBASE III+ は dBASE II と同様の成功を収め、1987年の売り上げは3億ドルとなった。
Esber はクライアントサーバという新しい世界に向けて dBASE の再構築を指示した。これは次世代 dBASE の根本的な書き換えであった。Ratliff が不在だったため、Long が主任アーキテクトを務めた。
[編集] サードパーティによるクローン
dBASE は複雑な製品であったため、それをサポートする周辺製品を開発・販売するサードパーティが多数生まれた。アシュトンテイトは dBASE の新しいバージョンを開発するたびにサードパーティ製品の機能を取り込んでいった。このため、市場では dBASE の新バージョンが発表されるたびにサードパーティの製品の売り上げが激減するという現象が起きた。これは、実際にそのサードパーティの機能が新バージョンに取り込まれるかどうかに関わらず起きた現象であり、アシュトンテイトは発表時には大風呂敷を広げて実際にリリースしてみると機能が実現されていないことが多かった。このため、サードパーティは次第に不満を溜めていった。
サードパーティのアドオンとして特に重要なものとして、dBASEコンパイラがある。これは、dBASE 内部のスクリプト言語で書かれたプログラムを単独で実行できるようにするものであった。これを使うとプログラムの配布が容易になるだけでなく、実行時に dBASE 本体をインストールしておく必要がないのである。アシュトンテイトは、実行環境のみの dBASE を $395 で販売していたが、これがコンパイラの台頭によって全く売れなくなっていった。主な dBASE コンパイラとしては Clipper がある。dBASE コンパイラは後に完全な dBASE クローン製品へと成長していった。
Esber は dBASE クローンには悩まされていたが、サードパーティは dBASE を補完するという意味で重要と考えてもいた。最終的に彼はクローン製品を開発・販売している企業に対しては厳しく対処した。彼は業界のある会議で激昂し、dBASEクローンを作った者は誰でも訴えてやると叫んだこともある。この発言は波紋を呼び、コンピュータ言語の所有権についての論争が起きた。
[編集] その他のPC向け製品
この時期、Esber はアシュトンテイトの多角化のため、様々な企業を買収して製品の品揃えを拡大していった。しかし、そのほとんどは失敗に終わり、売り上げに貢献することはなかった。このことは、変化の激しい市場での企業買収と製品の連携の難しさを示している。
- MultiMate - ワードプロセッサ。ワング・ラボラトリのワープロ専用機をPC上で実現したもの。しかし、買収した1985年にはワングのワープロ機は既に時代遅れになりつつあり、売り上げが伸びることもなく、改良も困難だった。
- Masterシリーズ - Chart Master、Sign Master、Diagram Master などの単純なグラフ描画ソフト群。表計算ソフトがグラフ描画機能を組み込むようになって売れなくなった。
- Framework - ワープロ、表計算、小型データベース、アウトラインプロセッサによるオフィススイート。GUIベース。買収した製品の中では最も成功した例であるが、当時は個々の単体のアプリケーションほど売れなかった。
- Byline - DTPソフト。機能は豊富ではないが低価格な製品。しかし、ワープロソフトの高機能化により売れなくなっていった。Forth言語で書かれている。
- Friday! - PIMソフト。dBASE II を使っている。大々的に宣伝されたが完全な失敗に終わった。
- RapidFile - フラットファイル型データベースと呼ばれるもの。宛名書きやフォームレターの作成に使われた。ある程度成功したが Windows 版が開発されることはなかった。これも Forth言語で書かれている。[3]
[編集] Mac向け製品
Macintoshが登場したころ、アシュトンテイトはメジャーなソフトウェア企業となっていたため、アップル側から製品移植の打診があり、アシュトンテイト側もこれに重大な関心を寄せた。Macintosh 登場から数ヶ月後、アシュトンテイトは Mac 向けデータベースを作っていた会社を買収し、後に dBASE Mac と呼ばれることになる製品の開発に着手した。また、他社の Mac 向け表計算ソフトやワープロソフトの開発に資金援助もしている(後の FullImpact と FullWrite)。
dBASE Mac は 1987年9月にリリースされたが、dBASE とは名ばかりでPC版とは全く互換性がなかった。互換性を期待して購入したユーザーは一からアプリケーションを書き直す破目に陥った。また、非常に性能が悪く、頻繁にクラッシュするということで悪評が立った。
FullWrite と FullImpact は1988年にリリースされた。どちらも好評だったが、FullImpact は競合製品の Microsoft Excel や Informix Wingz が先行して発売されていたため苦戦を強いられた。
この3つの製品は別々に開発されたため、連携を強化する必要があった。しかし、FullImpact が2年後にバージョンアップされただけで他はバージョンアップされることはなかった。また、マイクロソフトの攻勢により、アシュトンテイトの Mac 向け製品は勢いを失っていった。
[編集] SQL サーバ
dBASE の問題の1つとして、これがクライアントサーバモデルに基づいていないという点が挙げられる。つまり、コンピュータネットワーク経由で複数のユーザーがデータベースにアクセスするという使い方ができないのである。データベースをネットワーク上で使うには、データベースファイル全体をPC間で転送する必要があった。
クライアントサーバ型のデータベースは dBASE のようなスタンドアロンのシングルユーザ向けシステムとは根本的に異なる。従って、それをクライアントサーバ型に作り直すのは大変な作業である。ネットワークが企業で当たり前に使われるようになってきたため、アシュトンテイトの製品はその環境にはそぐわなくなってきていた。
Ed Esber とビル・ゲイツは Microsoft SQL Server に関する発表を行った。基本的な考え方は、SQL Server を dBASE のバックエンドとする(逆に言えば、dBASE を SQL Server のフロントエンドにする)というものであり、既存の dBASE 利用者がその資産を生かしつつ、クライアントサーバ環境に移行できるということになる。
この時期、アシュトンテイトは売り上げ額のピークである3億1800万ドルを記録している。
[編集] dBASE IV: 衰退
アシュトンテイトは1986年の dBASE 新バージョンの出荷を予定し、公表していた。この新バージョンは性能や機能が強化され、SQL Server との親和性を高めるために SQL もサポートし、コンパイラも内蔵する予定だった。しかし、リリースはマネジメントの失敗により 1988年に遅延した。また、その dBASE IV は性能が悪くバグが多かった。バグに関して言えば修正版を素早くリリースすれば大きな問題とはならないし、実際 dBASE III のときもアシュトンテイトは同様の状況を乗り切っていた。しかし、dBASE IV における問題は複雑に絡み合って、状況は最悪となった。
まず、dBASE IV には予定されていたコンパイラが含まれていなかった。また、実際に使ってみるとほとんど常に間違った答を返し、頻繁にクラッシュし、データベースファイルを破壊した。それでも製品はネームバリューによって売れ続けた。必要なのは適切なアップデートだけだった。しかし、同社はそれができず、dBASE IV 1.1 がリリースされたのは実に2年も経ったころであった。結局、その間に多くのユーザーが FoxBase や Clipper などの dBASE クローンを使うようになった。
dBASE の売り上げは激減した。1988年、同社はPC用データベース市場の 63% のシェアを持っていたが、1989年には 43% に急落した。また、SQL Server との連携もうまく行かず、マイクロソフトは代替のフロントエンドとして Microsoft Access をリリースすることになった。
dBASE は当初 CP/M 向けに Z80 アセンブリ言語で書かれ、dBASE II のときに 8088 アセンブリ言語に移植された。dBASE III のときには、C言語で書き直され、バグが修正された後には非常に優れた製品となった。このコードをベースとして dBASE IV は開発された。移植に次ぐ移植で、そのコードはいわゆる「スパゲッティコード」になっていた。ある箇所でバグが見つかってそれを修正すると、別の箇所に影響が出るといった具合であった。競合する FoxPro は大学教授とその学生たちが書いたコードをベースとしており、コードのモジュール性と拡張性に注意が払われていた。このため、そのコードベースは後の Visual FoxPro まで受け継がれた。
[編集] 法廷闘争
Esber は dBASEファイル形式の標準化をしようとしていたユーザーグループを脅迫した。この標準によれば、誰でも dBASE 互換システムを作ることができ、Esber はそれを許すことができなかったのである。しかし、彼らはその作業をやめると同時に、新たな標準 "xBase" を作成し始めた。
Esber はクローン企業 Fox Software を訴えた。1990年にこの件が法廷に持ち込まれたころ、Fox Software は FoxPro をリリースして市場シェアを伸ばしつつあった。この裁判でうまくいけば、アシュトンテイトは FoxPro の出荷を差し止めることができ、他のクローンも販売できなくでき、結果として dBASE IV の低迷している売り上げを立て直すことができると期待していた。
しかし、この件は裁判にはならなかった。dBASE は本来、JPLが使っていたメインフレーム用の言語とファイル形式に基づき Ratliff がPC向けに開発したものである。クローン製品はコードをそのまま使っているわけではないので、問題となるのは言語やファイル形式の所有権が誰にあるかということである。Ratliff はアシュトンテイトを離れていたため、アシュトンテイトに有利な発言をするわけもなく、所有権はJPLにあるということになった。このため、訴えること自体が不当とされ、裁判にはならなかったのである。
その後、裁判所は先の決定をくつがえし、言語の所有権の確認のための調停を行うとしたが、既にアシュトンテイトは立ち直れない状況となっていた。ボーランドとの合併の条件として、裁判所はボーランドに対して dBASE 言語の所有権の放棄を要求した。
[編集] ボーランドによる買収
Esber は数年前から他社との合併の道を模索していた。例えば、1985年から1989年までロータスとの合併の議論を進めていた。もし1985年にアシュトンテイトとロータスの合併が実現していたら、パーソナルコンピュータ用ソフトウェアの歴史は大きく変わっていただろう。他にも、Cullinet、CA、インフォミックス、シマンテック、マイクロソフトとの合併話があったが、いずれも成立しなかった。
1990年、ボーランドとの合併が持ち上がった。しかし、アシュトンテイトの取締役会はボーランドとの合併を進めようとする Esber を辞めさせ、Bill Lyons を後任とした。Lyons は dBASE 以外の製品ビジネスの責任者だったが、Esber が進めて後は出荷するばかりとなっていた dBASE IV 1.1 のリリースを行った。
アシュトンテイト経営陣の各人に25万ドルのボーナスと高額な退職金を与えるなどのオプションを追加した上で、Lyons はボーランドとの合併交渉を再開した。買収価格は Esber のときよりもずっと減額された。
ボーランドとの合併は平穏無事とは行かなかった。ボーランドには既に競合製品の Paradox があり、そのプログラマたちは dBASE よりも優れていると自負していた。フィリップ・カーンは dBASE をよく引き合いに出して、両チームを社内で競わせた。さらに Borland dBase Compiler for Windows というオブジェクト指向版 dBASE ともいうべき製品も別に開発され、最終的にアシュトンテイトのチームは勝負に負けたことを認めた。
カーンは市場の動向を見極め、両方の製品を真に Windows ベースとなるよう改良すべきだと判断した。1993年、ボーランドは従来のコードベースでは Windows 対応できないとしてこれらを捨て、新製品開発チームを立ち上げ、1994年に dBASE for Windows をリリースした。しかし、1992年にマイクロソフトがリリースした Access が市場を席巻しており、同時期にマイクロソフトは Fox Software を買収して FoxPro もリリースしていた。dBASE クローンの市場は FoxPro に収斂していき、dBASE for Windows は短命に終わった。
Quattro Pro と Paradox をノベルに売却すると、ボーランドに残された製品は Esber が 1980年代に取得していた InterBase だけとなった。ボーランドはソフトウェア開発ツールに注力する方針を打ち出し、InterBase は開発ツールの一部として、あるいは SQLデータベースのプロトタイピング用として最適なものとして残されたのである。
結果として、アシュトンテイトの買収はボーランドにとっては過ちだった。採算性のない製品は販売をやめる必要があり、主要製品である dBASE は長年蓄積された問題がボーランドのマネジメントを圧迫した。このため、マイクロソフトとの市場での争いが最高潮に達したころ、ボーランドの弱体化を招くことになった。そして、そのころフィリップ・カーンはボーランドを辞めていった。
[編集] こぼれ話
- dBASE IIの名づけ親はロサンゼルスの広告コンサルタント Hal Pawluk であった。また、dBASE II のマニュアルに "personal letter from a founder"(創業者からの個人的手紙)と題した文章を書き、Joe Ashton という架空の名前で署名した。このため、アシュトンテイトのサポートに電話したユーザーは、Joe Ashton の個人的な友人だと主張することがあった。一時期、アシュトンと名づけられたインコが同社の食堂で飼われていた。
- 当初の社名は Software Plus ではなく Discount Software とされている場合もある。これはどちらも正しい。George Tate は両社を含めた3つの会社を運営していた。Software Plus は再販業者向けのソフトウェア流通業、Discount Software は一般消費者向けの通信販売、Software Centre は小規模の小売店チェーンであった。
- dBASE II を含む当時のデータベース製品は、複数のデータファイルを扱えることを「リレーショナル」と称していた。もちろん、当時既にリレーショナルデータベースという用語は存在していたし、dBASE II などはリレーショナルデータベースではない。
- dBASE II の初期のライセンス契約書には99年間のソフトウェア利用権を与えるとの記述があった。後に PC Magazine の John Dvorak は奇妙なソフトウェアライセンスのコレクションにこれを入れている。
[編集] 参考文献
- Ashton-Tate - Ed Esber の公式サイト
- Interview with Wayne Ratliff
- Merrill Chapman, In Search of Stupidity, Apress 2003
- "Computer Glitch: How Ashton-Tate Lost Its Leadership In PC Software Arena," ;;The Wall Street Journal, 1990年4月11日
- Ashton-Tate copyright shield for dBASE line stripped by court order