ビル・ゲイツ
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ビル・ゲイツ Bill Gates |
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2006年ポーランドにて |
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本名 | William Henry Gates III |
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生年月日 | 1955年10月28日(52歳) |
出生地 | アメリカ合衆国・ワシントン州シアトル |
国籍 | アメリカ |
職業 | マイクロソフト社会長 ビル&メリンダ・ゲイツ財団会長 |
配偶者 | メリンダ・ゲイツ |
家族 | 長女ジェニファー(1996年生) 長男ローリー(1999年生) 次女フィービー(2002年) |
ウィリアム・ヘンリー・ゲイツ三世(William Henry Gates III, 1955年10月28日 - )は、アメリカ合衆国の実業家でマイクロソフト社の共同創業者・会長、ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団共同会長。称号はイギリス女王より名誉騎士(名誉大英勲章ナイト・コマンダー)、立教大学及び早稲田大学より名誉博士を贈られている。
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[編集] プロフィール
ハーバード大学を中退するも2007年名誉学位号を授与された。立教大学から名誉博士号を授与されたときには、「大学を出ていない私が大学からこのような学位を得られて嬉しい」と語っている。
ナポレオンの研究家でもある。世界で唯一個人で「レオナルド・ダ・ヴィンチの手稿」を保有している。ピンボールが好きで、自宅にも何台か設置されている。
テキサス州ダラス市生まれのメリンダ・フレンチ(旧姓)と1994年1月1日に結婚し、3人の子供とともにシアトル郊外、キング郡マダイナに在住(2005年7月現在)。世界中を飛び回っているが、一般旅客機に乗る時には必ずエコノミークラスに座っている。ただし自家用ジェット機も所有している[1][2]。
[編集] 経歴
詳細はマイクロソフトを参照
ゲイツは、1955年10月28日にシアトルでウィリアム・ヘンリー・ゲイツ・シニア(1925年 - )とマリー・マクスウェル・ゲイツとの間に生まれた(姉にクリスティ、妹にリビーがいる)。ゲイツ家は裕福な家庭で、父は法律家、母は銀行役員の秘書として働いていた。彼は小学校を優秀な成績で卒業し、特に算数と理科が得意だった。その後、シアトルの私立レイクサイド中学・高校に入学した。レイクサイド校は、1967年当時シアトルで授業料が最も高い学校だった。レイクサイド校ではDEC社のPDP-10を生徒に貸しており、そこでコンピュータに興味を持つようになった。高校生のとき、友人のポール・アレンとともにトラフォデータ社を創業し、州政府に交通量計測システムを納入したり、オレゴン州ポートランドの会社の、COBOLでの給与計算システムの作成を手伝ったりしていた。1973年に、ゲイツはハーバード大学に入学、そこで後のマイクロソフト社員となるスティーブ・バルマーと知り合った。
1975年、ポピュラー・エレクトロニクス誌にアルテア8800のデモが載っていたのを読んだゲイツは、アルテア8800を販売していたハードメーカーMITSに電話をかけ、実際には未だ何も作成していないBASICインタプリタについて「私は作成に成功した。購入してくれないか?」と鎌をかけた。その結果、返事が返ってきたため、同社がBASICの販売に関心があると見抜き、それから開発を開始した。このときはレイクサイド高校の寄宿舎をトラフォデータ社の電話番号としていた為、リダイヤルしたエド・ロバーツは悪戯だと思い込んだ。しかし8週間後、ゲイツとアレンの寝食を忘れたプログラミングの結果BASICは完成する。 いざ完成してMITSの本社のあるニューメキシコのアルバカーキに運ぶ際、アレンがBASICのブートローダの開発を忘れていたことに気がつき、移動中の飛行機中で完成させた。このときゲイツはシアトルでアレンの帰りを待っていた為同席はしていない。そしてゲイツはハーバード大学を休学し、アルバカーキに引っ越してアレンと共にマイクロソフト社(当時はMicro-Softと綴った)を創業した。
1980年、IBMよりOSの開発を要請された際に、Seattle Computer Products社から$56,000で手に入れたCP/M互換OS、86-DOS(QDOS)をPC-DOS(MS-DOS)という名前で納入し、現在の基礎を作った。$56,000の価格については、破格の条件でありタダ同然の価格でだまし討ちであったと言われ、後に100万ドル支払っている。
しかし、パロアルト研究所でAltoを見ていずれMS-DOSでは将来的に通用しなくなる事も理解していたため、Windowsの開発に乗り出した。断られたりはしたが、Mac OSのライセンス契約をしようとしたり、Macの最初のサードパーティとしてMac OS用のWordやExcelの制作も、そういった動きの一環だと見る向きもある。そして、Macintoshの発表前に、アジア圏を中心にWindowsを発表。結果的にApple社を出し抜いた形になったため、ここからスティーブ・ジョブズと彼との、または、Macを愛用する者とWindowsを使用する者との確執は始まったとも言われているが間違いである。当時の、タイリングしか出来ないDOSのシェルであったWindows 1.0は初期のMacに比べても非常に貧弱でソフトもほとんどなく、米国ではWindows 3.1、日本ではWindows 95が出るまではライバルと成り得なかった。AppleとMicrosoftの訴訟合戦はジョブズがAppleを去った後のことであり、ジョブズが1997年にAppleに戻ってから全ての訴訟で和解している。同社の開発したオペレーティングシステムのMicrosoft Windowsは1990年代後半には世界1位の市場占有率となり、彼の名は世界に知れ渡った。
2000年1月にCEO職をバルマーに譲り、現在はマイクロソフト社の会長。アメリカの雑誌フォーブスの2006年世界長者番付によると、個人資産は推定530億ドル(日本円で約6兆2000億円)で13年連続の世界一となっていた。大半は同社株の売却益や含み益で、現在も同社株を約8億5000万株(発行済株式数の約9%弱)を保有している。
2007年の米長者番付で、マイクロソフトのビル・ゲイツ会長が資産総額590億ドル(約6兆7800億円)で14年連続トップとなった。同会長の資産は前年よりもさらに60億ドル膨らんだ。
2006年6月15日、2年後の2008年7月に第一線から身を退き、ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団での活動を重視し、同日、CSA(Chief Software Architect、主席ソフトウェア設計者)職をレイ・オジーに移譲すると発表があった。会長職には留まる予定。2007年にはフォーブスの世界長者番付で第2位となった。ちなみに第1位は中南米の携帯電話会社América Móvilなどを所有するメキシコの富豪、カルロス・スリム・ヘルとなった。
2008年6月30日をもって会長職にはとどまるものの、フルタイムの仕事からは引退する予定。
[編集] ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団
詳細はビル&メリンダゲイツ財団を参照
ビル・ゲイツが彼の妻メリンダ・ゲイツ、父親のウィリアム(ビル)・ゲイツ・シニアとともに作った慈善団体。2005年には国際団体「ワクチンと予防接種のための世界同盟」に、民間としては最大規模の7億5000万ドルの寄付を発表した。
財産管理は主にメリンダが行っており、寄付をする際の検査は、厳格に調査していると公表している。
なお、2006年6月15日の記者会見にて、2008年7月にマイクロソフト社の経営とソフト開発の第一線から退き、「ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ基金」の活動に専念すると発表した。早期に引退し慈善活動に携わることが成功者の美徳とされるアメリカの慣習に法った決断と言える。
2006年12月1日には、夫妻の死後50年以内に財団の資産を使い切って活動を終えると発表した。同基金は「我々が取り組んでいる問題を今世紀中にめざましく進展させるため」と、存続期間を限定した理由を説明している。
同基金は、途上国のエイズ、マラリア、結核の根絶や教育水準の改善などに尽力しており、今後は寄付を拡大する方針も明らかにもしている。