山崎武司
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山崎 武司 東北楽天ゴールデンイーグルス No.7 |
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 愛知県知多市 |
生年月日 | 1968年11月7日(39歳) |
身長 体重 |
181cm 100kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
守備位置 | 指名打者、一塁手 |
プロ入り | 1986年 2位 |
初出場 | 1989年9月7日 |
年俸 | 1億9,200万円(2008年) |
経歴 | |
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■Template ■ウィキプロジェクト 野球選手 |
山崎 武司(やまさき たけし、1968年11月7日 - )は、東北楽天ゴールデンイーグルスに所属するプロ野球選手(内野手)。左手一本のフォロースルーでレフトスタンドに打球を放り込む豪快なプルヒッティングが持ち味である。
1999年5月21日より、登録名を『山崎 武司』から『山﨑 武司』へ改めた(後述)。
目次 |
[編集] 球歴
[編集] プロ入り前
- 知多市立八幡中学校出身。先輩に伊藤敦規投手、後輩に浅尾拓也投手(浅尾の兄が山崎とは中学時代の同級生)がいる。
- 愛知工業大学名電高等学校(1983年に名古屋電気高等学校から改称)出身。甲子園出場経験はないものの、通算56本塁打を放っている。現・横浜ベイスターズの工藤公康は5年先輩、現・シアトル・マリナーズのイチロー(本名・鈴木一朗)は5年後輩に当たる。(イチローが大リーグ入団した年のオフにこの先輩後輩の3人衆で写真を撮っている)
- 1986年のドラフトで中日ドラゴンズから2位指名を受け、捕手として入団する。同年のドラフト1位は同じ名古屋市にある享栄高校の左腕エース近藤真一(1993年に真市に改名)。
[編集] 中日時代前半(ナゴヤ球場時代)
- 1987年、中日でプロ野球選手としてのキャリアをスタート。この年に中日の監督に就任した星野仙一の親友でもある田淵幸一に因み、背番号22を与えられる。入団直後、ロサンゼルス・ドジャース傘下のチームへ野球留学した時には、三塁手としてプレーしていたが、帰国すると捕手に戻る。この年は一軍出場なし。同期入団の近藤真一は一軍初登板(初先発)でノーヒットノーランを達成するなどの大活躍を見せた。
- 1988年も一軍出場なし。この年中日は6年ぶりにセ・リーグ優勝を果たし、1年後輩の立浪和義が新人王に選ばれている。
- 1989年9月7日の対広島東洋カープ19回戦(広島市民球場)において一軍初出場(9回表、代打で起用される)。9月10日の対ヤクルトスワローズ19回戦(ナゴヤ球場)においてプロ初安打(9回裏、内藤尚行からレフト前ヒット)を放つ。10月15日の対広島26回戦(広島)において、先発捕手として出場するが、盗塁王を狙う正田耕三に5連続盗塁を許し、試合途中で2年先輩の正捕手中村武志と交代させられる。これ以降、外野手に転向。二軍では、ウエスタン・リーグの本塁打王、打点王を獲得する。
- 1990年、ウエスタン・リーグで本塁打王、打点王を2年連続で獲得する。
- 1991年5月9日の対横浜大洋ホエールズ5回戦(横浜スタジアム)において、5回表に田辺学よりプロ入り初本塁打を放つ。
- 1993年、一軍での出場を増やし、先発右翼手として安定して出場し、レギュラーも目前となる。
- 1994年、チームの主砲落合博満がFA宣言をして読売ジャイアンツへ移籍。代わりに大豊泰昭が外野手から内野手へ転向する。山崎にとっては出場機会を増やす好機であったが、彦野利勝の復活などにより逆に出場機会を減らしてしまう。
- 1995年、16本塁打を放ち、先発左翼手となる(開幕前の自主トレでは同い年で現役のWBC世界バンタム級チャンピオン薬師寺保栄に師事しボクシングの練習を取り入れた。山崎と中日同期入団である近藤は薬師寺と享栄高校の同級生で、その縁で交友があった。山崎は、1994年12月4日、名古屋市総合体育館で薬師寺が暫定王者辰吉丈一郎破り3度目の防衛=王座統一した世紀の一戦をリングサイドで観戦している)。
- 1996年、星野が中日の監督に復帰。6月19日の対巨人10回戦(ナゴヤ)において、8回裏に槙原寛己から5番・音重鎮、6番・山崎、7番・大豊泰昭が3者連続本塁打を放つ 。6月は打率.403、13本塁打、33打点を記録し、月間MVPに選ばれる。オールスターゲームまでのシーズン前半を打率、本塁打、打点の三部門のトップで終え、オールスターゲームにも監督推薦で出場する。中日・巨人ともに最終戦となった10月8日の対巨人26回戦(東京ドーム)において、39本塁打の山崎は、38本塁打の松井秀喜(当時・巨人/現・ニューヨーク・ヤンキース)、37本塁打の大豊と本塁打王を競っており、中日投手陣は松井に全打席四球を与えて最終的に39本塁打の山崎が、38本塁打に終わった松井、大豊を抑え、単独で本塁打王を獲得する。最高長打率(.625)も記録し、ベストナインにも選ばれる。この年の山崎は打率、本塁打、打点のすべてで松井を上回ったが、巨人が優勝したため、松井がシーズン最優秀選手に選ばれている。
[編集] 中日時代後半(ナゴヤドーム時代)
- 1997年、中日の本拠地がナゴヤ球場からナゴヤドームへ移るが、中日は新しい本拠地に適応できず5年ぶりのセ・リーグ最下位に終わる。山崎も外野が広くなり守備の負担が増えたことなどから、打撃成績を大幅に落とす。
- 1998年、一塁手であった大豊が阪神タイガースへトレードされたため、この年から主に一塁手としてプレーすることになる。8月18日の対ヤクルト18回戦(神宮)において、2回表にプロ入り通算100号本塁打をマーク・エーカーより放つ。通算100本塁打達成はプロ野球史上198人目。この年は16勝利打点を記録し、最多勝利打点で表彰される。27本塁打は、巨人の松井、広島の江藤智(現・埼玉西武ライオンズ)に次ぐセ・リーグ3位。最優秀JCB・MEP賞を受賞する。11月1日のセ・リーグ東西対抗戦(宮崎市営球場)において、3ラン本塁打を放ち、最優秀選手賞を受賞する。
- 1999年5月9日の対広島9回戦(広島)において、5回、6回、8回に、3打席連続本塁打を放つ。9月26日の対阪神26回戦(ナゴヤドーム)、中日が2-1とリードしていたが、9回表に抑えの守護神・宣銅烈がマーク・ジョンソンに3ラン本塁打を打たれ2-4と逆転される。しかし、9回裏1アウト一・二塁で福原忍から逆転サヨナラ本塁打を放って中日が勝利する。この時に取った、両足を広げ拳を握り両手を掲げた「X」字型のポーズは、ファンの間で山崎の代名詞とされている。この日の勝利により優勝へのマジックナンバーを5とした中日は、4日後の9月30日、対ヤクルト26回戦(神宮)で11年ぶりのセ・リーグ優勝を決める。しかし、この試合で一塁守備中に打者走者の真中満と交錯して左手首を骨折。このため、山崎は福岡ダイエーホークスとの日本シリーズに出場することができず、チームも1勝4敗で日本一を逃した。
- 2000年7月12日の対阪神15回戦(ナゴヤドーム)において、7回裏にプロ入り通算150号本塁打を吉田豊彦(後に東北楽天ゴールデンイーグルスで同僚となる)より放つ。通算150本塁打達成はプロ野球史上114人目。オールスターゲームに監督推薦で出場。7月23日にグリーンスタジアム神戸で行われた第2戦において4打数3安打2打点と活躍。MVPを受賞する。シーズンでは打率.311と、1996年の打率.322に次ぐ好成績を記録するが、契約更改で18本塁打が少な過ぎると指摘される。
- 2001年10月6日の対広島28回戦(広島)において、プロ野球史上376人目となる通算1000試合出場を記録する。この年、チーム最多の25本塁打を放ったが、契約更改で今度は打率.238、51打点が低過ぎると指摘される。この評価に納得がいかずFA宣言。一時は金銭面で好条件を提示された横浜ベイスターズ移籍へ傾くが、最終的には中日と3年契約を結び残留。この年、1年後輩の立浪が中日と4年契約を結び、チームリーダー、幹部候補としての立場を明確にする。
- 2002年、チームのヘッドコーチを務めていた山田久志が監督に就任。山崎はオープン戦から不調で、4月末に二軍へ降格させられる。二軍戦でも不調が続いたが、レオ・ゴメスの故障により、7月初旬から一軍復帰。7月26日の対阪神15回戦(甲子園)において、同点で迎えた9回表一死満塁のチャンスで空振り三振。チームもその裏に英智のエラーでサヨナラ負けを喫してしまう。試合後、山田は「どこかでブツっと切ってしまう。なんかお通夜みたいなもんだ。さらにアイツを使うオレが悪いんだけど。チームを奈落の底につき落としてしまう選手がいる。何とかしてくれたらいいんだけど」と発言する。この発言が山崎を指したものか不明であったが、山崎は「(悪いのは)蔵本じゃない。今日はオレだ。オレが打っていれば、ミスもなかった」と話した。この後、ほとんど出場機会を与えられることはなく、この年のシーズン終了後、平井正史との交換トレードでオリックス・ブルーウェーブに移籍することとなる。
[編集] オリックス時代
- 2003年、平井との交換トレードでオリックス入り。背番号5を与えられる。この年、オリックス監督を務めていたのは石毛宏典であったが、開幕から1ヵ月も経たない4月23日に解任となり、打撃コーチのレオン・リーが新監督に就任する。8月19日の対ダイエー22回戦(福岡ドーム)において、2回表にプロ入り通算200号本塁打を倉野信次から放つ。通算200本塁打達成はプロ野球史上77人目。8月25日の対日本ハムファイターズ22回戦(ヤフーBBスタジアム)において、2回裏に関根裕之の投球を球審・白井一行に見逃し三振と判定されたのに不満を示すと、球審に侮辱的な態度を取ったとして退場処分を受ける。この年、規定打席不足ながらチームの日本人選手の中では最多の22本塁打を放って気を吐くが、オリックスは2年連続パ・リーグ最下位に終わる。トレード相手の平井はこの年12勝を記録。見事に復活を遂げてカムバック賞を受賞している。
- 2004年より、前年まで西武ライオンズ監督を務めていた伊原春樹がオリックス新監督に就任。4月27日からの西武との3連戦(ナゴヤドーム)において、ご当地選手であるため伊原から先発を公約されており、この日の試合では指名打者として先発出場。3打数2安打と活躍する。しかし、この試合中に負傷した谷佳知を伊原が翌28日に指名打者として先発させたため、山崎は先発から外される。関係者も多数招待していた試合での先発落ちにショックを受け、試合開始前に自宅へ帰ってしまう。これまで打率.390(41打数16安打)と好調だったが、試合前に帰宅したことで「職場放棄」と見なされたのか、その翌日に懲罰的な意味で二軍へ降格させられる。(この「ボイコット事件」について山崎本人は、試合に出られる心理状態ではないという伊原監督の判断の下、許可があったために帰宅したと述べている[1])これ以降、二軍落ちを何度も経験し、チームもパ・リーグ3年連続最下位に終わる。9月には球団から戦力外通告を受け、一時は現役引退も考えたが、高校の先輩である巨人・工藤の勧めなどもあり、現役続行を決意。12月11日、新規参入の東北楽天ゴールデンイーグルスと契約する。
[編集] 東北楽天時代
- 2005年、東北楽天に入団。背番号は自らの娘の名前に因んで7をもらった。この年、楽天は50年ぶりの新規参入球団としてパ・リーグに参戦、田尾安志がチームの初代監督を務めた。3月26日球団史上初の公式戦である千葉ロッテマリーンズとの開幕戦(千葉マリンスタジアム)では「5番・指名打者」で先発出場。開幕直後は右手に死球を受けて負傷し、二軍で治療に専念するなどあまり活躍できなかったが、この年から始まったセ・パ交流戦に入ると調子を上げ、5月7日の巨人2回戦(フルキャストスタジアム宮城)で9回裏に中日時代の同僚前田幸長から球団史上初の代打本塁打を記録。6月初めから4試合連続の5本塁打を放つ。交流戦後は「4番・指名打者」として定着するようになる。7月2日の対日本ハム6回戦(フルスタ宮城)において、3回裏に江尻慎太郎よりレフト前ヒットを放ち、プロ野球史上234人目となる通算1000本安打を達成する。プロ19年目での達成は稀有のスロー記録。事実上、楽天の初代4番としてのシーズンとなった(実際は第5代にあたる)。7月27日の対日本ハム戦の試合前に仙台市内の小学校を訪問。子供達に「ホームランを打つ」と約束して臨んだこの日の試合で満塁ホームランを放ち、子供達との約束を果たした。この年、チームはダントツの最下位に終わったが、チーム最多となる25本塁打を放って4番としての役割を十分に果たした。
- プロ20年目を迎える2006年は新監督・野村克也からチームの主軸として、またチームリーダーとして期待される。6月17日の対巨人戦(東京ドーム)において高校の先輩である工藤公康から2打席連続本塁打を放ったり、7月29日には楽天初となる逆転満塁ホームランを放った。8月5日、史上49人目となる通算250本塁打を達成。プロ20年目で到達した山崎は「開幕から1つの小さな目標としてきたので、達成できて嬉しいです」と喜びを語った。しかし、2006年は終わってみれば前年以下の成績であった。
- 2007年は、開幕直後は中々調子が上がらなかったものの5月から一気に調子が上がり、5月のパ・リーグ野手の月間MVPを獲得。月間MVP獲得はチーム発足後初であり、自身もプロ野球史上最長のブランクとなる中日時代の1996年6月以来の10年11ヶ月ぶり。
- 6月14日、プロ野球史上152人目となる通算1,500試合出場を達成する。
- ガリバーオールスターゲームでは指名打者として100万票以上もの投票を受け、最多得票を獲得した。東京ドームでの第1戦では代打で途中出場し、マーク・クルーンから天井直撃のサードファウルフライを打ち上げた。そしてフルスタ宮城での第2戦では第1打席に先制の2ランホームランを放つと、第2打席でも二塁打を放ち、優秀賞と2試合通して最も印象に残った選手を顕彰するガリバー賞を獲得。後日、ガリバー賞の賞品としてポルシェ・カイエンが贈呈された。
- 8月27日にはこの日誕生日を迎えた娘の前で、39号・40号を放ちプロ21年目にして初めて40本の大台に乗せた。また9月15日自身2度目11年ぶりの100打点を記録した。21年目の40本塁打100打点は、共にプロ野球初となる記録(ただし、山崎の場合、一軍の試合に出場していない年が2年あるため実働19年目となる)で、実働19年目の40本塁打は王貞治、門田博光に並び、実働19年目の100打点は王貞治、衣笠祥雄の20年目に次ぐ記録である。
- タフィ・ローズと熾烈な本塁打王、打点王争いを繰り広げたが、ローズは9月18日の試合で左股関節の悪化を起こし、翌日登録抹消されその後治療のため帰国した。最終的には43本108打点の自身にとってのシーズン最高記録でタイトルを獲得した。打点王は自身初、本塁打王は11年ぶりとなる。尚、両リーグでの本塁打王の獲得は、落合博満、タフィ・ローズに次ぎ3人目である。
- 21年目での打点王、本塁打王は共に史上初の快挙。実働19年目での本塁打王は王貞治、門田博光に並ぶ記録。実働19年目での打点王は王貞治、衣笠祥雄の20年目に次ぐ記録。また年長記録38歳での本塁打王、打点王共に2位で40歳での二冠王を記録した門田博光に次ぐ記録。更に38歳での年齢別最多本塁打記録も塗り替えた(以前の最多記録はジョージ・アルトマン、岩本義行、王貞治の39本塁打)。
- 前半戦の山崎の本塁打量産、フェルナンデスの不振もあり、チームの4番に座ることが多かった。山崎とフェルナンデス双方の調子の波もあり、山崎の打撃の調子が悪くなると、フェルナンデスが4番に座ることもあった。
- 2007年ベストナイン指名打者部門に選出された。ベストナインも本塁打王と同じく自身11年ぶり2度目の選出である。
- 2008年4月3日の千葉ロッテ戦にて久保康友から史上32人目となる通算300号本塁打を放つ。
[編集] 年度別打撃成績
年度 | チーム | 試 合 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
失 策 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1987年 | 中日 | 一軍出場なし | |||||||||||||||||||||
1988年 | 一軍出場なし | ||||||||||||||||||||||
1989年 | 20 | 29 | 2 | 5 | 1 | 0 | 0 | 6 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1 | 5 | 0 | 11 | 0 | 3 | .172 | .286 | .207 | .493 | |
1990年 | 5 | 7 | 1 | 3 | 1 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | .429 | .500 | .571 | 1.071 | |
1991年 | 26 | 43 | 2 | 6 | 2 | 0 | 1 | 11 | 2 | 0 | 1 | 1 | 0 | 7 | 0 | 18 | 2 | 1 | .140 | .260 | .256 | .516 | |
1992年 | 40 | 106 | 6 | 25 | 5 | 0 | 4 | 42 | 10 | 0 | 0 | 0 | 0 | 10 | 1 | 26 | 6 | 0 | .236 | .308 | .396 | .704 | |
1993年 | 77 | 163 | 14 | 44 | 12 | 0 | 3 | 65 | 17 | 0 | 0 | 1 | 2 | 20 | 1 | 43 | 6 | 11 | .270 | .349 | .399 | .748 | |
1994年 | 38 | 42 | 7 | 11 | 3 | 0 | 3 | 23 | 13 | 0 | 1 | 0 | 0 | 8 | 0 | 13 | 0 | 0 | .262 | .380 | .548 | .928 | |
1995年 | 66 | 203 | 28 | 59 | 10 | 0 | 16 | 117 | 39 | 2 | 0 | 1 | 3 | 21 | 5 | 56 | 5 | 0 | .291 | .366 | .576 | .943 | |
1996年 | 127 | 453 | 83 | 146 | 20 | 0 | 39 | 283 | 107 | 1 | 1 | 0 | 3 | 42 | 4 | 95 | 11 | 4 | .322 | .382 | .625 | 1.007 | |
1997年 | 130 | 421 | 45 | 108 | 19 | 2 | 19 | 188 | 54 | 0 | 1 | 0 | 1 | 55 | 6 | 66 | 14 | 2 | .257 | .350 | .447 | .796 | |
1998年 | 131 | 439 | 52 | 112 | 17 | 1 | 27 | 212 | 86 | 0 | 3 | 0 | 6 | 63 | 8 | 95 | 14 | 4 | .255 | .355 | .483 | .838 | |
1999年 | 113 | 354 | 59 | 87 | 16 | 0 | 28 | 187 | 75 | 1 | 0 | 1 | 1 | 50 | 4 | 99 | 11 | 7 | .246 | .345 | .528 | .873 | |
2000年 | 118 | 427 | 55 | 133 | 29 | 3 | 18 | 222 | 68 | 3 | 2 | 0 | 3 | 39 | 4 | 74 | 15 | 4 | .311 | .372 | .520 | .892 | |
2001年 | 111 | 365 | 46 | 87 | 16 | 0 | 25 | 178 | 51 | 0 | 1 | 1 | 1 | 24 | 7 | 95 | 13 | 2 | .238 | .297 | .488 | .785 | |
2002年 | 26 | 78 | 2 | 15 | 2 | 0 | 2 | 23 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | 26 | 1 | 1 | .192 | .241 | .295 | .536 | |
2003年 | オリックス | 110 | 358 | 42 | 83 | 21 | 1 | 22 | 172 | 68 | 0 | 0 | 0 | 4 | 36 | 3 | 95 | 11 | 1 | .232 | .304 | .480 | .785 |
2004年 | 62 | 151 | 18 | 37 | 8 | 0 | 4 | 57 | 20 | 0 | 0 | 0 | 0 | 13 | 2 | 41 | 5 | 0 | .245 | .313 | .377 | .691 | |
2005年 | 楽天 | 118 | 383 | 51 | 102 | 22 | 1 | 25 | 201 | 65 | 0 | 1 | 0 | 2 | 38 | 7 | 80 | 8 | 4 | .266 | .342 | .525 | .867 |
2006年 | 122 | 419 | 40 | 101 | 21 | 1 | 19 | 181 | 67 | 0 | 2 | 0 | 2 | 51 | 7 | 116 | 6 | 0 | .241 | .332 | .432 | .764 | |
2007年 | 141 | 506 | 86 | 132 | 27 | 2 | 43 | 292 | 108 | 1 | 1 | 0 | 7 | 71 | 10 | 142 | 28 | 1 | .261 | .359 | .577 | .936 | |
通算成績 | 1581 | 4947 | 639 | 1296 | 252 | 11 | 298 | 2464 | 857 | 8 | 14 | 5 | 36 | 559 | 69 | 1192 | 150 | 45 | .262 | .343 | .495 | .841 |
- 太字はリーグ最高。
[編集] タイトル・表彰・記録
- 初出場:1989年9月7日対広島東洋カープ19回戦(広島市民球場)、9回表に代打として出場
- 1000試合:2001年10月6日対広島東洋カープ28回戦(広島市民球場)、9回裏に一塁手の守備に就く
- 1500試合:2007年6月14日対中日ドラゴンズ4回戦(フルキャストスタジアム)、4番・指名打者として先発出場
- 初安打:1989年9月10日対ヤクルトスワローズ19回戦(ナゴヤ球場)、9回裏に内藤尚行から左前安打
- 1000本安打:2005年7月2日対北海道日本ハムファイターズ6回戦(フルキャストスタジアム)、3回裏に江尻慎太郎から
- 初本塁打:1991年5月9日対横浜大洋ホエールズ5回戦(横浜スタジアム)、5回表に田辺学から
- 100本塁打:1998年8月18日対ヤクルトスワローズ18回戦(明治神宮野球場)、2回表にマーク・エーカーから
- 150本塁打:2000年7月12日対阪神タイガース15回戦(ナゴヤドーム)、7回裏に吉田豊彦から
- 200本塁打:2003年8月19日対福岡ダイエーホークス22回戦(福岡ドーム)、2回表に倉野信次から
- 250本塁打:2006年8月5日対オリックス・バファローズ12回戦(フルキャストスタジアム)、1回裏に吉井理人から
- 300本塁打:2008年4月3日対千葉ロッテマリーンズ3回戦(クリネックススタジアム宮城)、3回裏に久保康友から
- 初打点:1989年9月13日対横浜大洋ホエールズ24回戦(横浜スタジアム)、8回表に松本豊から
- 初盗塁:1995年6月1日対横浜ベイスターズ10回戦(ナゴヤ球場)、6回裏に二盗
- 本塁打王:2回(1996年、2007年)
- 打点王:1回(2007年)
- 最多勝利打点:1回(1998年)
- ベストナイン:2回(1996年、外野手・2007年、指名打者)
- 最優秀JCB・MEP賞:1回(1998年)
- 月間MVP:3回(1996年6月、2007年5月、2008年3・4月)
- オールスターゲーム最優秀選手賞:(2000年、第2戦)
- 最高長打率 1回1996年(平成8年)
- オールスターゲーム出場:3回(1996年と2000年にいずれも監督推薦での出場、2007年にファン投票で出場)
[編集] エピソード
[編集] 野球関係
- 中学野球では本塁打を1本も打っていない。
- ドラフトの際、実は読売ジャイアンツに入りたかった(同い年で同期の巨人の選手は木田優夫、緒方耕一)と語っている。
- アメリカで教育リーグに参加していた際、3打席連続本塁打を放ち、相手チームの監督からメジャーリーグを目指してアメリカでプレーするよう誘われた。
- 1996年に本塁打王のタイトルを獲得した際、本塁打を打つたびに貰えるドアラ人形を生まれたばかりの長男にプレゼントしていた。
- 1999年、5月20日まで「山崎武司」の登録名だったが、5月21日現在の名前(山﨑武)に改名した。5月20日の横浜戦でそのシーズン初めて途中交代と言う屈辱を味わい、試合後の夕食会場で隅っこで食事をしていたところ、中日の佐藤球団社長(当時)に「君はいい選手だよ。だから、もっと自己主張しなさい」と諭され、「ところでやまさきとやまざきどっちかね」と言う話になる。山崎は「やまさきです」と答え、さらに戸籍上では山﨑であると説明した。また、長男が生まれた際、姓名判断によるとその名前では1画足りないということだったが、戸籍の名字なら1画増えてちょうどいいと話した。すると、佐藤球団社長が「自己主張のため君も1画増やしなさい」ということで改名がその場で決定。21日昼に中日球団が連盟に変更を申し入れ受理されると、改名した山崎はその日のヤクルト戦で2回裏に10号2ランを放った。
- 中日監督時代の山田久志、オリックス監督時代の石毛宏典にキャンプで三塁手の練習をさせられたが、いずれも短期間で断念している。
- 2001年、2002年には、山崎賢太が中日のチームメイトであったため、スコアボードなどに「山﨑武」と表記されていた。2006年からは楽天でも同姓の山崎隆広がチームメイトとなり、同様の表記がなされている。
- 「狭い球場が好き」と公言している。特にヤクルトの本拠地である明治神宮野球場が好きである。しかし2007年オフに明治神宮野球場は改修工事が行われ、楽天本拠地のKスタ宮城並の広さになった。
- 現在の東北楽天の背番号「7」は娘の名前(なな)よりとったもの。この際、オリックスから分配ドラフトで移籍した竜太郎も心機一転を期して7番を希望したが、結局球団は山崎に与え、竜太郎には「実力で奪い取れ」と奮起を促した。
- やや激昂しやすい性格で、死球を受けて投手の所に詰めよったり、審判の判定に不服を持って抗議をしたが暴言を吐き、または侮辱をして退場などということが度々ある。また乱闘になると自分より身体の大きな外国人選手にも平気で向かっていってしまう。
- 1996年5月1日の対巨人5回戦(ナゴヤ)において、5回裏に相手投手のバルビーノ・ガルベスの投げたボールが山崎の頭に向かって飛んできた。山崎はこれを避けたものの、この投球に激怒しマウンドへ詰め寄ってガルベスと殴り合いを始めてしまい、乱闘に発展してしまった。この後山崎とガルベスは共に退場処分を受けた。
- 楽天に入団してから、読売ジャイアンツ(2005年はオリックス・バファローズ所属)の投手であるジェレミー・パウエルとは2年連続で手に死球を与えられて負傷してしまったという因縁があり、2006年の死球の際には山崎がパウエルに向かって「これで2回目だぞ!」という意味を込めて指を2本立てながら絶叫し、マウンドに詰め寄ろうとしてあわや乱闘の騒ぎになった。2008年4月22日の対ソフトバンク戦では(2008年パウエルはソフトバンク所属)、山崎が普段より10~15センチ下がって打席に立ち、捕手の的山にも忠告していたのにも関わらず、またもや死球を受け乱闘寸前の騒ぎとなった。山崎としては、前日にパウエルが内角攻めを公言し、2アウト走者なしの状況の初球で死球を受けたため、故意にぶつけにきたと映ったようである。
- 2007年4月25日のオリックス戦でランス・カーターから死球を受けた際は、それまでの経緯(楽天の投手2人がグレッグ・ラロッカに2度死球を与え、オリックス投手の吉井理人がケビン・ウィットに対して威嚇ともとれる頭部付近への投球を行った)から山崎は報復と思い、マウンドに詰め寄ろうとした。そしてそれを止めようとした日高剛のマスクをはたき落としたため、両軍入り乱れる乱闘騒ぎとなった。その騒ぎの中でオリックス所属のタフィ・ローズが山崎を小突いたとして退場が宣告されたが、日高のマスクをはたき落とした山崎については審判が見ていなかったということで何ら処罰を受けなかった。仮に目撃していたら退場にしていたと永見武司球審は語っている。
- 2006年監督に就任した野村克也は山崎の野球への取り組みを高く評価している。春先には「山崎は一生懸命やってても一生懸命やってるように見えない(損な奴やな)」と語った。また、楽天のルーキー山崎隆広は、内角のさばき方の手本として阪神の今岡を挙げると、野村は「天才の真似はできないからするな。苦労してつくった人の真似をせい」と「努力型」の例としてまっさきに山崎武司の名を挙げた。シーズン中には、山崎が変化球に倒れ凡退すると「もっとうぬぼれろ!お前にストレートが来るわけないだろ!」と激励するなど、ベテラン和製大砲に全面的な信頼を寄せている。また山崎自身も野村の野球観に心酔し、「この年になって毎日が新たな発見」と探究心に余念がなく、お互いに密接な関係を築きつつある。
- 今やチームの精神的支柱として欠かせない存在となっている。入団以来連敗が続いていた松崎伸吾に対し「オレはお前みたいなピッチャーを見たことがある。何の変哲もなかったけど、努力して球界を代表する投手になった」と、同じ左腕投手である野口茂樹(現・読売ジャイアンツ)を引き合いに出して激励している。捕手の嶋基宏がミスして負けた時にも「お前のせいで負けたんやぞ」と言いながら、安打が出ないと「もっと打席でバットを振れ」とフォローしている。また、投手の青山が一塁ベースカバーを怠った際に叱り飛ばし、野村監督が「山崎は素晴らしいチームリーダー」とコメントしている。
- 2007年前半の好調は、配球を読むようになった事と構える手の遊びを大きくしたことを本人は挙げている。配球を読むようになったきっかけは、野村監督が試合中にベンチで若いピッチャー、キャッチャーに打者心理の指示をしているのを傍らで聞き、それを打撃に応用したということである。手の遊びを大きくしたきっかけは2007年5月2日のヤフードームでのソフトバンク戦、この日のソフトバンク先発は和田毅で山崎が苦手としていた投手だった。しかし山崎は開き直り、「どうせ打てないならダラダラ打ってやろう」と体の力を抜いて(手の遊びを大きくして)打ったところ苦手の和田相手に2打席連続本塁打という結果に繋がった(加えて和田の配球の傾向を野村監督から指摘されたことも本塁打に繋がった)。この力を抜いて打つ打法を山崎自身はこんにゃく打法と呼んでいた(梨田昌孝のこんにゃく打法との繋がりは不明)。この2つにより、この年のセ・パ交流戦終了時点で27本塁打、シーズン55本塁打という日本記録ペースで本塁打を量産した。しかし8月頃からから本塁打の数が伸び悩み、更に8月過ぎから足の付け根を痛めたことでスイングや走塁の支障となり、更なるブレーキとなった。本人もこのシーズン終盤辺りについては不本意であったようである。
- 2007年開幕戦(対埼玉西武ライオンズ、於グッドウィルドーム)では、ホセ・フェルナンデスが夫人出産によりチームを一時離脱していたことから、開幕4番として出場。また、1週間後の3月31日のホーム開幕戦(対オリックス・バファローズ、於フルキャストスタジアム宮城)でも、フェルナンデスが胃腸炎で欠場したことから4番で出場する。しかし開幕直後は結果が残せなかったことから、翌4月1日(同じくオリックス戦)では一気に8番に降格されてしまう。しかし3回、得意とする吉井理人投手から先頭打者としてヒットで出塁すると、4番フェルナンデスの満塁ホームランで得点。さらに、5~7番が立て続けに出塁したことで満塁の状態で再び山崎に打席が回る。ここで山崎は満塁ホームランを打ち、これが1イニング中2発目の満塁ホームランとなった。1イニング2満塁本塁打は史上3度目。パ・リーグでは2度目(2本とも柵越え本塁打はパ・リーグ初)。同一投手から2本は史上初。
- 2007年4月7日、四死球0の状態で犠牲フライを放つなどした関係で、出塁率が打率を下回るという珍事が起きた。また、シーズン開幕1ヶ月間程は安打の半分が本塁打という「ホームランか三振か」状態で、打率は規定打席到達者内で最低ながら本塁打数は1位という時もあった。
- 2007年4月30日の日本ハム戦の9回裏2死で山崎は四球で出塁。そして山崎は歩いて二盗を成功させてしまった。この時チームは5点差で負けていて、尚且つ山崎の足が速くないことから、ベースカバーすらされていないまったくのノーマーク状態であったことで誰にも気が付かれなかった。この後2本のヒットとエラーで2点を返したもののチームは負けてしまった。
- 2007年5月27日の横浜戦で両リーグ最速で20号に到達。那須野巧から放った本塁打は場外へ飛んで行き、横浜スタジアムの外の露天の商品(Yes! プリキュア5のキュアアクアのお面)に命中。ただし店主は、「長いことやってきたけど、場外ホームランが飛んできたのは初めて。私は運が良いよ」と喜んでいたという。この出来事以降、主にビジター球場の外野スタンドでは当てたお面と同じ物を持って応援するファンの姿が見受けられるようになった。
- 2007年9月12日のオリックス戦、5-5の9回裏1死満塁と一打サヨナラのチャンスで山崎の打席が回ってきた。山崎が打った打球はショートへのゴロだったが、一塁へ全力疾走した結果ゲッツー崩れになり、三塁ランナーが生還。サヨナラショートゴロとなった。試合後のヒーローインタビューで山崎は冗談を交えながら「こんな足で勝ちに貢献できたのは1500試合出て初めてじゃないかな」と語っている。一塁を駆け抜けた際に山崎は転倒したが、本人によるとその時の足の状態はかなり思わしくなく、その足を気遣うためにわざと転んだと語っている。
- 山田久志、伊原春樹とは両名が中日、オリックスの監督の時には考え方が合わず、山崎自身も暴言を吐き、干された経緯があるため不仲であったが、伊原とはその後和解し、また話題が合うところがあり、現在は会ったらある程度会話はするという。一方山田とは山崎が一方的に拒絶しており、2007年のセ・リーグのクライマックスシリーズで両者がテレビ番組のゲストとして呼ばれた際、山崎が「一緒は嫌だ」という理由で山田とは別のブースに移してもらった。また、山田から声をかけられた時も無視し、目すら合わせようとしなかったという。
[編集] 相撲関係
- 八幡中時代は野球部のほか、相撲部でも活躍した。野球では地方大会止まりだったが、3年次の大会終了後、数日の練習で相撲の愛知大会で優勝、全国大会にも出場し、藤島部屋ほか数か所の部屋からスカウトもされた。
- 1997年のシーズンオフ、正月番組『プロ野球オールスタースポーツフェスティバル』の相撲競技で優勝。当時巨人の松井秀喜とも対戦。
- 1998年のシーズンオフ、正月番組『プロ野球オールスタースポーツフェスティバル』の相撲競技で2年連続優勝。しかし、取組相手であった日本ハムの片岡篤史が右肩脱臼の重傷を負ってしまい、これ以降、プロ野球選手の相撲競技は行われなくなった。
- 元前頭筆頭・朝乃若(現・若松親方)は、愛工大高校の1年後輩で親しい。また、元十両2枚目・須佐の湖は八幡中学校の後輩で幼なじみでもある。
[編集] 趣味など
- 子供の頃は競輪選手になりたかった。
- 1990年12月19日、実家近くで火事の現場に遭遇した際、知人らと協力して炎の中から子供を助け出し、地元消防署から表彰された。このことは、セ・リーグからも特別表彰を受けた。
- 愛車はフェラーリ、メルセデス・ベンツ。2007年にこのうちのフェラーリ・F512Mを楽天オークションに出展。1450万999円で落札されるも、落札者が直後にオークション会員を退会して連絡が取れなくなってしまい、オークション不成立となってしまった。
- 趣味はミニカー収集で自宅には3000台ものミニカーがあるという。ミニカーメーカーの京商と専門誌が共催した
タイアップのドイツへのツアーに特別ゲストとしてツアーに参加した。自宅のコレクションとインタビューは雑誌ミニカーファン誌に掲載された。 ラジコンカーも大好きで、中日の山本昌とラジコンカーレース大会『山山杯』を毎年開催している。
- 毎年10着のスーツをオーダーメードで新調する。若手選手のファッションに苦言を呈するなど、球界のファッションリーダーを自認している。
- その風貌と性格、「たけし」という名前から、アニメ『ドラえもん』のキャラクターである「ジャイアン」と呼ばれる。これは中日・楽天でチームメイトであった中村武志と区別する意味合いもある。しかしインタビューの受け答えなどは割と丁寧で、声なども優しい声である。
- 東北楽天での山崎の応援歌は中日時代のものを引き継いだ。
- 好物はエビフライ。山崎がプロデュースして2006年8月5日に発売された「どえりゃー山崎弁当」には、山崎のとにかく大きなエビフライが目立つ豪快な弁当にという強い希望に応えて、大海老を頭から丸ごと使った大きなエビフライが入っていた。なお、この弁当は豪快さを売りにする山崎らしくエビフライには大きな有頭エビを使用するなど、関係者によると「1,000円で売り出しているけど、実際は1,500円ぐらいかかっている」という逸品で、「間違いなく売り上げはNo.1」と飛ぶように売れている。好評を受け、2007年8月27日には「山崎でらうまカレー」をプロデュースするが、こちらにも約18cmの巨大エビフライが入っている。2008年4月19日には、山崎の地元の名産手羽先をおつまみとした「テバサキタケシ」をプロデュースし、販売初日には30分で完売した。プロデュースした山崎本人はお酒が飲めない。
[編集] 脚注
- ^ 山崎武司 『野村監督に教わったこと』 講談社、2008年、127-132頁
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 山崎武司|公式ウェブサイト 山崎の公式ウェブサイト
- 山崎武司後援会オフィシャルサイト山崎武司後援会のサイト
- 山崎武司応援歌 山崎を応援するページ
- 八幡中学校の歴史 母校八幡中学校の50周年記念行事に参加する山崎
- 憧れの先輩、かっこいい先輩。 母校愛知工業大学名電高等学校を訪問する山崎
- 中村豪オフィシャルサイト 元愛知工業大学名電高等学校野球部監督の中村豪が山崎へ贈った絵画、山崎が中村へ送った色紙
- (株)ミワホビー 山山杯の結果など
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監督 |
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19野村克也 |
コーチ |
78橋上秀樹(ヘッド)|71紀藤真琴(投手)|76杉山賢人(ブルペン)|77池山隆寛(打撃)|81関川浩一(打撃補佐) 80西俊児(内野守備走塁)|75佐竹学(外野守備走塁)|70山田勝彦(バッテリー)|73野村克則(バッテリー) |
二軍監督・コーチ |
87松井優典(監督)|82吉田豊彦(投手)|86星野おさむ(打撃)|89永池恭男(内野守備走塁) 85広橋公寿(外野守備走塁)|90芹澤裕二(バッテリー)|84高村祐(育成/投手)|74米田慶三郎(育成/野手) |
投手 |
0佐藤宏志|11一場靖弘|13小倉恒|14牧野塁|16山村宏樹|18田中将大|20長谷部康平|21岩隈久志|22愛敬尚史|26有銘兼久 28片山博視|29林恩宇|30永井怜|34渡邉恒樹|36朝井秀樹|40吉崎勝|41青山浩二|43寺田龍平|45川井貴志|47松崎伸吾 49インチェ|50ドミンゴ|51川岸強|53石田隆司|54木谷寿巳|56戸部浩|57小山伸一郎|59菊池保則|60石川賢|65松本輝 |
捕手 |
27河田寿司|31藤井彰人|37嶋基宏|39井野卓|44中谷仁|48伊志嶺忠|52山本大明|58木村考壱朗|67銀次 |
内野手 |
1塩川達也|2渡辺直人|3吉岡雄二|4高須洋介|6西谷尚徳|7山崎武司|12草野大輔 17フェルナンデス|32沖原佳典|35大廣翔治|38山下勝充|55リック|66西村弥|68枡田慎太郎 |
外野手 |
00森谷昭仁|8礒部公一|9鷹野史寿|23聖澤諒|24山崎隆広|25横川史学 33平石洋介|46鉄平|61憲史|62高波文一|63牧田明久|64中島俊哉 |
育成選手 |
121内村賢介(内野手)|126中村真人(外野手) |
中日ドラゴンズ 1986年ドラフト指名選手 |
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1位:近藤真一 / 2位:山崎武司 / 3位:西村秀嗣 / 4位:荒川哲男 / 5位:長谷部裕 / 6位:本村信吾 |