魁ごう功
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本来の表記は「魁罡功」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。 |
魁罡 功(かいごう いさお、1941年11月16日-)は青森市出身の元大相撲力士。二子山部屋(入門時は花籠部屋)所属。本名は大村功。身長182cm、体重111kg。得意手は右四つ、投げ。最高位は西前頭5枚目(1969年5月場所、11月場所)。
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[編集] 来歴
数ある四股名の中でも、最も読めない名の一つに挙げられる。魁罡とは「星の王様」を意味するという。
学生時代は自動車部に所属し運転手を志していた。しかし、自動車以上に相撲が好きであったこともあり、巡業で横綱・若乃花が青森に訪れた際には、自ら若乃花に入門の意志を伝えそのまま上京してしまった。そして、若乃花の内弟子のような形で花籠部屋に入門し、1960年5月場所に初土俵を踏んだ。1962年には若乃花の二子山親方が花籠部屋から独立することなり、山中(後の小結・二子岳)らと共に二子山部屋に移籍。体重がなかなか増えず、三段目、幕下でやや苦労したが、稽古で足腰と腕力を強化し軽量を補って行き、徐々に上位でも勝ち越せる様になっていった。1968年5月場所には十両に昇進。同年11月場所には西十両3枚目の地位で12勝3敗の好成績で十両優勝を果たし、翌1969年1月場所には新入幕を果たした。右四つが得意であったが、小兵の体格を生かし立会いから低くく潜り込んでも力を発揮し、小股掬いなど巧みな技を見せた。同年11月場所には最高位タイの西前頭5枚目地位で場所を迎えたが、上位との対戦も多く組まれたため、4勝11敗と負け越してしまった。本来ならば十両に陥落するような地位ではなかったが、番付運に泣かされ翌1970年1月場所には東十両筆頭まで番付を落とした。以降も再入幕を目標に相撲を取り続けたが、十両の下位と上位を往復する生活が続いた。再起をかけて1971年3月場所には「二子竜」と改名したが、東十両11枚目の地位で4勝11敗と振るわず幕下陥落が止むを得なくなったため、千秋楽の一番を最後に現役を引退した。廃業をするつもりでいたが、二子山親方が本人の了承を得ずに年寄・放駒の襲名届けを提出してしまった。しかし、廃業の意志は固かったため翌日には廃業した。年寄襲名期間は1日で終わり、今後も破られないであろう年寄最短襲名記録を作った。廃業後は名古屋市内で飲食店を経営した。
[編集] 主な戦績
- 通算成績:307勝277敗 勝率.532
- 幕内成績:40勝50敗 勝率.444
- 現役在籍:63場所
- 幕内在位:6場所
- 各段優勝:十両1回(1968年11月場所)
[編集] 改名歴
- 大村 功(おおむら いさお)1960年9月場所
- 二子龍 功(ふたごりゅう-)1960年11月場所-1967年5月場所
- 魁罡 功(かいごう-)1967年7月場所-1971年1月場所
- 二子竜 功(ふたごりゅう-)1971年3月場所
[編集] 年寄変遷
- 放駒 功(はなれごま)1971年3月28日~29日