館山藩
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館山藩(たてやまはん)は、安房国(現在の千葉県館山市城山)に存在した藩。
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[編集] 概要
館山は戦国時代、後北条氏と関東の覇権をめぐって争った里見氏の支配下にあった。里見義弘の死後、家督継承を巡る内紛に巻き込まれた里見義頼が安房国統治の拠点として天正8年(1580年)頃に館山城を築城した。その後、天正16年(1588年)にその後を継いだ義康によって改築されたとされる。
里見義康は小田原征伐に従軍し、遅参を理由に上総国は没収されるが、安房一国は安堵された。これが館山藩の立藩である。その後、義康は居城を館山城に移し、9万2000石の所領を領した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与して武功を挙げたため、戦後に常陸国鹿島郡に3万石を与えられ、12万2000石の大名となった。慶長8年(1603年)11月16日、義康は31歳の若さで死去し、後を子の里見忠義が継いだ。しかし忠義は大久保忠隣の孫娘を妻としていたため、慶長19年(1614年)の大久保長安事件に連座して改易された。これにより、館山藩は廃藩となる。
天明元年(1781年)9月18日、徳川家治のもとで小姓組番頭・御側申次と出世を重ねて田沼意次と共に権勢を振るった山城淀藩の分家の稲葉正明が、従来の7000石に安房・上総国内で3000石を加増されて1万石の大名として諸侯に列したことから館山藩を立藩する。天明5年(1785年)1月29日には安房・上総国内で3000石を加増されたが、翌年の家治の死で田沼が失脚すると、正明もその余波を受けて3000石没収の上、出仕停止処分となった。寛政元年(1789年)7月8日、正明は隠居して子の稲葉正武が後を継ぐ。正武は文化9年(1812年)3月9日に隠居して家督を子の稲葉正盛に譲ったが、正盛は文政2年(1819年)12月6日、大坂加番中に29歳の若さで死去し、翌年に長男の稲葉正巳が後を継いだ。この正巳は有能な藩主で、幕末期の動乱の中で徳川慶喜の信任を得て若年寄、老中格、海軍総裁、陸軍奉行、大番頭、講武所奉行などを歴任し、幕府海軍の創設や外交問題などに大きな功を挙げた。明治元年(1868年)の戊辰戦争では、正巳は幕府の役職を全て辞して隠退し、家督を稲葉正善に譲った上で新政府に恭順しようとしたが、榎本武揚率いる幕府海軍が館山湾から、上総請西藩などの幕府軍が陸からそれぞれ侵攻してくるなど、館山藩は苦難を極めた。しかし正巳はこれを乗り切り、新政府に恭順した。正善は翌年の版籍奉還で藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で館山藩は廃され、正善は県知事となった。館山藩は館山県となり、同年11月14日、木更津県に編入された。
[編集] 歴代藩主
[編集] 里見(さとみ)家
12万2000石。外様。
[編集] 稲葉(いなば)家
1万石→1万3000石→1万石。譜代。
- 稲葉正明(まさあき)<従五位下。越前守>
- 稲葉正武(まさたけ)<従五位下。播磨守>
- 稲葉正盛(まさもり)<従五位下。播磨守>
- 稲葉正巳(まさみ)<従四位下。兵部大輔>
- 稲葉正善(まさよし)<従五位下。備後守>