稲葉正明
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稲葉 正明(いなば まさあき(まさあきら))は、はじめ旗本。のちに安房国館山藩の初代藩主。
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時代 | 江戸時代後期 | |||
生誕 | 享保8年(1723年) | |||
死没 | 寛政5年8月5日(1793年9月9日) | |||
別名 | 留之助(幼名) | |||
戒名 | 良仙衍壽證行院 | |||
墓所 | 東京都墨田区向島の弘福寺 | |||
官位 | 従五位下、越中守、越前守 | |||
藩 | 安房館山藩主 | |||
氏族 | 稲葉氏 | |||
父母 | 父:稲葉正親、養父:稲葉正福 | |||
兄弟 | 稲葉正益、稲葉正福、稲葉正明 | |||
妻 | 正室:戸田氏房の養女(戸田定浩娘) | |||
子 | 稲葉正令(長男)、堀正賞(次男)、 稲葉正武(四男) |
享保8年(1723年)、山城淀藩主・稲葉正親の三男として生まれる。享保20年(1735年)5月、分家を継いでいた兄・稲葉正福の養子となり、8月5日にその家督を継いで3000石の旗本となった。元文2年(1737年)8月には徳川家治の小姓となり、従五位下、越中守に叙任する。宝暦5年(1755年)9月、小姓組番頭格(御側御用取次見習)、12月には御側御用取次など、要職を歴任した。
やがて田沼時代に入ると、田沼意次に同調したため、明和6年(1769年)10月17日に上総・常陸国内で2000石を加増された。安永6年(1777年)4月には安房国内で2000石を加増され、天明元年(1781年)9月18日には安房・上総国内で3000石を加増されて合計1万石となったため、大名となって安房館山藩主となった。天明4年(1784年)5月12日には越前守に叙任され、天明5年(1785年)1月には安房・上総国内で3000石を加増され、1万3000石の大名となった。
しかし天明6年(1786年)に徳川家治が死去したため、田沼意次が失脚すると、田沼派の排除を図る松平定信によって3000石を削減されて屋敷を召し上げられ、さらに御側御用取次も罷免されて幕府中枢から排除された。しかし稲葉家の存続は許され、寛政元年(1789年)7月8日、家督を四男・正武に譲って隠居した。
寛政5年(1793年)8月5日に死去。享年71。
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