里見義康
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里見 義康(さとみ よしやす、天正元年(1573年) - 慶長8年11月16日(1603年12月18日))は里見義頼の子。里見忠義の父。幼名は太郎。龍濳院殿傑山芳英大居士。
天正15年(1587年)、父義頼の死により家督を継ぐ。翌天正16年(1588年)、豊臣秀吉に安房国・上総国全域および下総国の一部を安堵された。
しかし、天正18年(1590年)の小田原征伐では、秀吉の怒りに触れた結果、上総・下総を没収されてしまい、安房国9万石に減封される。秀吉の逆鱗に触れた原因について、従来は「遅参」が原因であるとされていたが、近年の研究では惣無事令違反(秀吉の命令に拠らない独断の軍事行動をとったこと、及び無断で禁制を発給したこと)が原因だったとする説が主流になっている。宿敵である北条氏によって奪われた失地回復の好機と考えたのかも知れないが、それは統一政権の下では許されない事であった。なおこの時、義康をとりなしたのが徳川家康で、以降里見氏は徳川氏に接近するようになる。
小田原征伐後、里見義康は上洛。羽柴姓を与えられ、安房守・侍従に任じられる。義康はこれ以降、豊臣政権崩壊までの間、羽柴安房侍従と呼ばれた。その後、天正19年 (1591年)に館山城を築城し居城とした(ただし、近年では義頼時代に既に存在していたと考えられており、義康はその改築を行ったとされる)。
文禄元年(1592年)の文禄の役では、徳川家康に随行し肥前名護屋城に駐屯した。
慶長5年(1600年)の関ケ原の役では東軍に組し、会津上杉氏の押さえとして結城秀康の軍とともに宇都宮へ出陣。この功により戦後、常陸国鹿島郡3万石を加増されて12万石を領した。
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