青山宗俊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|
||||
時代 | 江戸時代前期 | |||
生誕 | 慶長9年11月6日(1604年12月26日) | |||
死没 | 延宝7年2月15日(1679年3月26日) | |||
別名 | 伊勢千代(幼名) | |||
戒名 | 義辺寸忠幡竜院 | |||
墓所 | 京都府京都市北区紫野の大徳寺 | |||
官位 | 従五位下、従四位下、因幡守 | |||
幕府 | 江戸幕府書院番頭→大番頭→大坂城代 | |||
藩 | 信濃小諸藩主→摂津・河内国内→ 遠江浜松藩主 |
|||
氏族 | 青山氏 | |||
父母 | 父:青山忠俊、母:大久保忠佐の娘 | |||
妻 | 側室:石橋氏、大河原氏 | |||
子 | 忠丸、青山忠雄(次男)、青山忠重(三男) 青山貞俊(四男)、青山忠貴(五男) 娘(永井尚長正室のち半井成明室) 娘(本多忠隆室) |
青山 宗俊(あおやま むねとし)は、はじめ旗本。のちに信濃小諸藩主を経て、大坂城代、そして遠江浜松藩の初代藩主となる。青山家宗家3代。
慶長9年(1604年)、徳川氏譜代の重臣・青山忠俊(武蔵岩槻藩主・上総大多喜藩主)の長男として生まれる。元和7年(1621年)、従五位下・因幡守に叙位・任官する。元和9年(1623年)に父が第3代将軍・徳川家光の勘気を受けて蟄居になったとき、父と共に相模高座郡溝郷に蟄居した。
寛永11年(1634年)、家光から許されて再出仕する。寛永15年(1638年)12月1日に書院番頭に任じられ、武蔵・相模国内で3000石を与えられて旗本となる。寛永21年(1644年)5月23日に大番頭に任じられる。正保5年(1648年)閏1月19日、信濃小諸において2万7000石を加増され、合計3万石の大名となり、信濃小諸藩主となる。寛文2年(1662年)3月29日、大坂城代に任じられたため、所領を2万石加増されて合計5万石の大名となった上で、所領を摂津・河内・和泉・遠江・相模・武蔵などに移され、移封となる。
寛文9年(1669年)12月26日、従四位下に昇叙する。延宝6年(1678年)に大坂城代を辞職し、8月18日に浜松藩に移封となる。延宝7年(1679年)2月15日に死去。享年76。後を次男の忠雄が継いだ。
|
|
|
|
|
|
|
|
|