酒井忠能
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酒井 忠能(さかい ただよし)は、江戸時代の大名。上野伊勢崎藩(上野那波藩)主。後に信濃小諸藩主を経て、駿河田中藩主となる。酒井雅楽頭家の出自で、将軍・家綱時代に大老を務めた忠清の弟に当たる。
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時代 | 江戸時代前期から中期 | |||
生誕 | 寛永5年3月17日(1628年4月21日) | |||
死没 | 宝永2年5月22日(1705年7月12日) | |||
別名 | 万千代(幼名) | |||
戒名 | 円浄院殿 | |||
官位 | 従五位下、日向守 | |||
藩 | 上野伊勢崎藩(那波藩)主→信濃小諸藩主 →駿河田中藩主 |
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氏族 | 酒井氏 | |||
父母 | 父:酒井忠行、母:松平定勝の娘 | |||
兄弟 | 酒井忠清、酒井忠能 | |||
妻 | 正室:稲葉正勝の娘 | |||
子 | 養子:酒井忠佳 |
[編集] 略歴
寛永5年(1628年)3月17日、酒井忠行の子として酒井氏江戸屋敷に生まれる。寛永13年(1636年)に祖父の忠世と父が相次いで死去すると、兄の忠清とともに遺領を相続し、忠能は上野国那波郡など3郡2万2500石を分知されて伊勢崎藩主(那波藩主)となる。
将軍家世継の家綱付きとして三の丸奏者番を務め、家綱が将軍となると本丸奏者番となる。寛文2年(1662年)6月4日、7500石加増されて3万石の上で、信州小諸藩に移封される。領内に検地を実施し、百姓に対して苛酷な政治を行なったため、寛文10年(1670年)に領内で領民による一揆が発生し延宝7年(1679年)9月6日、1万石加増の上で駿河国田中藩へ移封された。
延宝8年(1680年)に第4代将軍・家綱が死去すると徳川綱吉が第5代将軍職に就任し、大老職を務めていた兄の忠清は解任され、翌天和元年(1681年)に死去する。同年12月10日に忠能も在国中の逼塞を理由に改易された。忠能改易の真相は不明であるが、忠清を疎んでいたといわれる綱吉が連座として改易処分に処したとも、不審死であったともいわれる忠清の遺体を検死させなかったことを恨んでの意趣返しとも言われている。忠能の身柄は彦根藩主・井伊直興預かりとなるが、元禄3年(1690年)4月19日に許され、同年8月には5000石の旗本として存続を許されている。
宝永元年(1704年)6月27日、養子の忠佳に家督を譲り隠居し、宝永2年(1705年)5月22日に死去、享年78。墓所は東京都葛飾区高砂町の崇福寺。
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