検地
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検地(けんち)とは中世から近世にかけて行われた田畑の面積と収量の調査のことである。現在の課税台帳整備に当たるもの。
[編集] 概要
(倹地と書かれる場合もある) 律令制下、全ての農地の所有権は国家が持っていることになっていた。しかし、平安時代になると公地公民は崩れ、荘園と呼ばれる私有地の存在が認められるようになる。そのため、各地は国府が管理する国衙領と私有地である荘園にほぼ二分される。国衙領については国府が大田文と呼ばれる台帳を作成し、農地の面積や収量を把握し、徴税の基礎資料としていた。しかし、荘園に関しては、課税のための調査も課税もできない。この状態は鎌倉・室町時代になっても変わらなかった。室町・戦国の混乱時代、農業生産高は爆発的に増加したが、各地にモザイクのように存在する割拠勢力はそれぞれ消長を繰り返し、また支配下にも多くの自立領主がいるため、自領の実質総農業生産高を把握するのも困難であった。
しかし、戦乱を経て地方に荘園や国衙領という枠を超えた一円に支配権を確立する戦国大名が成長する。彼らは、自分の支配地域における課税を行うための資料として土地の調査を行った。これが検地である。しかし、多くの戦国大名は全領地に検地を行うことができなかった。多くは新規に獲得した領地に対して行っている。それは家臣団や有力一族の抵抗が大きいからである。
急速に勢力を拡大した織田信長もその領国内でこの検地を行い、農業生産高とそれに基づく課税台帳の整備に力を入れた。信長死後その政権を引き継いだ豊臣秀吉は初めて全国的に検地(太閤検地)を実施した。しかし、この検地も実際に豊臣氏の家臣が直接行ったものではなく、多くは大名の自己申告制であった。これにより全国的に石高制が認知されるようになる。また、太閤検地が画期的なのは、土地の所有者ではなく、耕作者を調査し、耕作者に課税したことである。これにより、土地に対して重層的にあった中世的な中間権利である様々な職が否定され、耕作者は直接領主に納税することとなり、農村にいた中間搾取者としての武士はほぼ一掃されることとなった。
続く江戸時代は、農業技術の進歩と新田開発の進展、幕府や藩の財政悪化などによりたびたび検地が行われた。検地により農民への課税は重くなる傾向が強いため、農民も一揆などでそれを阻止しようと試みることもあった。
明治政府は、農業収入に課税する年貢制ではなく、全土地に課税する地租を導入し、検地は行わなくなった。