青井鉞男
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青井鉞男(あおいよきお、1872年(明治5年)8月10日 - 1937年(昭和12年)9月17日)は、日本のアマチュア野球選手(投手)で学生野球の指導者。栃木県出身。日本の野球史の草分け期に大きな功績を残し、また後進者の育成に大きく寄与したことが讃えられ、1959年(昭和34年)の野球殿堂創設時に初めて特別表彰者として殿堂入りした。
[編集] 経歴
鉞男は旧制宇都宮中学校を卒業後、旧制一高に進学。一高ベースボール部で主戦投手として活躍した。「千本素振り」は鉞男の練習方法の真骨頂である。
一高時代、横浜の外人居留地を尋ね、そこでドロップを体得した。「日本に敵なし」と言われた一高ベースボール部の主戦投手となった鉞男は、この外人居留地の外人アマチュアクラブチームに一高と試合するよう申し込むが、当時の日本人の体格は小さく技術も稚拙であるとして外人クラブは試合を拒否。それに挫けず当時の一高の英語教授・メーソンを通して試合を申し入れたことにより、1896年(明治29年)5月23日、横浜の外人居留地運動場で外人チーム(横浜外人クラブ)との国際試合(記録上では日本初)が実現する。この試合で鉞男は投手として活躍し29対4で大勝、これが記録上はじめて日本の野球チームが外国人チームに勝利した試合である。これに対して横浜外人クラブは雪辱戦を一高側に申し入れる。外人クラブチームは米国東洋艦隊チャールストン号、デトロイト号の精鋭を揃え、チーム全員米国人で試合に臨んだ。第2戦が行われた6月5日、再度一高ベースボールチームが32対9で今度は日本ではじめて米国人チームに大勝、連勝を飾ることとなった。
この第2戦で応援に駆けつけた横浜商業学校(Y校)の関係者は、「あんぱん」をもって一高の戦勝を祝った。これに応えた一高側はお礼にボールとバットを贈呈したのをきっかけに、Y校は同年野球部を創設、鉞男をコーチとして迎える。鉞男はこうして後進の野球選手を育てるとともに、野球規則を日本語文に翻訳するなど、野球の草分け期にその発展に寄与することとなった。