関ヶ原 (小説)
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『関ヶ原』(せきがはら)は、司馬遼太郎作の歴史小説。1964年(昭和39年)か7月ら1966年(昭和41年)8月にかけて「週刊サンケイ」に連載。単行本は、昭和41年に上中下巻で新潮社より刊行、『司馬遼太郎全集』(文藝春秋)では、14巻、15巻(『豊臣家の人々』と併録)に収録。日本史における古今最大の決戦である関ヶ原の戦いを壮大なスケールで描いた力作。司馬遼太郎の戦国三部作の一つでもある。
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[編集] 内容
太閤豊臣秀吉の逝去に端を発した五大老筆頭・徳川家康と五奉行・石田三成との抗争は日本全国へ飛び火し、全国の諸大名を東西二色に塗りわけ、彼らを天下分け目の合戦・関ヶ原へと駆り立てていく。
物語は徳川家康とその謀臣・本多正信、石田三成とその家臣・島左近の四人の人間模様と謀略戦を中心に描かれるが、その対立構図だけでなく、上杉・毛利・島津・鍋島・真田・長宗我部といった各地の大名の情勢も散りばめ、マクロな視点で関ヶ原の戦いを切り取ってみせている。
[編集] あらすじ
羽柴秀吉は鷹狩りの途中、茶を求めて寺に立ち寄る。そこで出会った石田三成の才覚を見出し、秀吉は彼を城に貰い受ける。やがて三成は当代の名士島左近を召し抱える。三成は朝鮮出兵で複雑な渡海運輸を見事に成功させるなど、秀吉の期待に応えた働きを行う。しかし、三成はへいくゎい者(横柄者)として嫌われていた。左近は人の反感を買う要因がこれほど揃っている男も珍しいと苦笑するが、この性格が様々な禍根を残してしまう。やがて秀吉は息子の秀頼を五大老に任せて病死、その後最も頼りになっていた前田利家も秀吉を追うようにして病死してしまう。家康は大坂城西の丸に移り住み、天下の主のような存在になっていく。利家死後の前田家に謀反の疑いをかけるなど、名実ともに天下の主へと近づいていく。これに対して三成の他に上杉景勝と上杉家家老直江兼続が反発した。景勝は城の修築や浪人の募集など、戦備を整え始める。家康は謀反の疑いありと使者を送るが、帰ってきたのは兼続からの挑戦状だった。慶長五年六月、家康は上杉征伐のために大坂城を出発した。
[編集] 主な登場人物
- 徳川家康
- 秀吉の死によりその遺訓を破って三成を挑発し、加藤清正や福島正則と言った反三成の大名を多く取り込み、天下をのっとる野望を抱く。世間で言われる、所謂「狸オヤジ」を地で行く非常に老獪な人物として描かれている。
- 石田三成
- 豊臣家の忠実な吏僚であったが、秀吉の死をきっかけに露骨に天下への野心を表す徳川家康や、彼になびき保身を企む諸大名達を憎悪する。正義を重んじるあまり融通が利かず、そのために多くの損を蒙った男として描かれる。
- 本多正信
- 家康との主従関係を「水魚の交わり」と比喩されるほど、家康に重宝された謀臣。家康以上に老獪な人物として描かれ、数々の策略を家康と練り上げ、三成に揺さぶりをかけていく。左近へのライバル意識が強い。
- 島左近
- 石田三成に高禄を持って召抱えられた三成第一の家臣。正攻法を重んじる理想主義者の主と異なり、現実主義者で家康の暗殺も数度試みた事がある。常に三成を暖かい目で見つめ、時に三成を諭し時に叱責する、三成にとって師のような存在。
- 初芽
- 正信の策により、三成と淀君の仲を乱すよう三成の下へ遣わされた少女。しかし次第に三成の人間性に惹かれ、三成と男女の関係を持つに至る。そのため、左近からその存在を煙たがられている。関ヶ原戦後に出家し、最後のシーンに登場する。
- 直江兼続
- 上杉景勝の重臣。義を重んじる性格のため、三成とウマが合う親友として描かれる。家康を会津へ引き寄せるため左近と謀議し、有名な「直江状」を家康に叩きつけ、家康を挑発する事に成功した。