長月 (睦月型駆逐艦)
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艦歴 | |
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建造所 | 東京石川島造船所 |
起工 | 1925年4月16日 |
進水 | 1926年10月6日 |
竣工 | 1927年4月30日(第三十号駆逐艦) |
喪失 | 1943年7月7日、大破放棄 |
除籍 | 1943年11月1日 |
要目(計画) | |
排水量 | 基準:1,315トン、常備:1,445トン |
全長 | 102.72m |
全幅 | 9.16m |
吃水 | 2.92m |
機関 | ロ号艦本式缶4基 ツェリー式タービン2基 2軸、38,500馬力 |
速力 | 37.25ノット |
航続距離 | 14ノットで4,500海里 |
燃料 | 重油450トン |
乗員 | 154名 |
兵装 | 45口径三年式12cm単装砲4門 留式7.7mm機銃2挺 61cm3連装魚雷発射管2基6門 (八年式魚雷12本) 爆雷投射器 爆雷12個 |
長月(ながつき)は日本海軍の駆逐艦。睦月型駆逐艦の8番艦である。同名艦に初代神風型駆逐艦の「長月」があるため、こちらは「長月 (2代)」や「長月II」などと表記される。艦名は陰暦で9月のこと。
目次 |
[編集] 艦歴
1923年(大正12年)度計画艦。東京石川島造船所で建造され1927年(昭和2年)4月30日に竣工した。当初は「第三十号駆逐艦」という艦名であり、一等駆逐艦に類別された。その後、1928年(昭和3年)8月1日に「長月」と改名された。
1937年(昭和12年)からの日中戦争により中支、南支方面に進出する。また仏印進駐作戦に参加した。
太平洋戦争では同型艦である「皐月」「水無月」「文月」と共に第22駆逐隊を編成し第5水雷戦隊に所属した。緒戦のフィリピン攻略戦、ジャワ島攻略戦、バタビア沖海戦などに参加する。1942年(昭和17年)4月10日に第一海上護衛総隊に編入され、南西方面で船団護衛に従事した。1943年(昭和18年)1月末からのガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)に参加、その後は輸送任務に従事した。
1943年(昭和18年)7月6日、クラ湾夜戦の最中に座礁、翌日に米軍艦載機の攻撃を受け大破し、放棄された。同年11月1日、除籍。
[編集] 歴代艦長
[編集] 艤装員長
- 高山忠三 中佐(1926年12月1日 -)
[編集] 艦長
- 高山忠三 中佐(1927年4月30日 -)
- 穂本繁治 中佐(1927年8月10日 -)(兼)[1]
- 柏木英 中佐(1927年11月15日 - 1928年8月1日)
- 平井泰次 少佐(1930年12月1日 - 1931年11月2日)
- 山田雄二 少佐(1933年11月15日 -)(兼)[2]
- 田中穣 少佐(1934年5月15日 -)
- 原為一 少佐(1935年11月15日 -)
- 大島一太郎 少佐(1936年12月1日 -)
- 磯久研磨 少佐(1936年12月12日 -)(兼)[3]
- 金田清之 少佐(1937年2月1日 - 1938年12月1日)(兼)[4]
- 塚本守太郎 少佐(1939年10月15日 -)
- 芦田部一 少佐(1940年1月25日 -)
- 中俣勇 少佐(1940年9月1日 -)(兼)
- 柴山一雄 少佐(1940年10月15日 -)
- ニノ方兼文 大尉(1942年4月15日 -)
- 古川為夫 少佐(1943年6月1日 -)
[編集] 公試成績
艦名 | 排水量 | 出力 | 速力 | 実施日 | 実施場所 | 備考 |
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長月 | 1,510トン | 40,787馬力 | 36.3ノット | 1927年(昭和2年)2月 | 館山沖標柱間 | 新造時、全力公試 |
[編集] 同型艦
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睦月 - 如月 - 弥生 [II] - 卯月 [II] - 皐月 [II] - 水無月 [II] - 文月 [II] - 長月 [II] - 菊月 [II] - 三日月 [II] - 望月 - 夕月 |
[編集] 参考文献
- 海軍歴史保存会『日本海軍史 第7巻』(第一法規出版、1995年)
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第10巻 駆逐艦I』(光人社、1990年) ISBN 4-7698-0460-1
- 日本造船学会『昭和造船史 第1巻』(原書房、1981年、第3刷)ISBN 4-562-00302-2
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。
- 『日本海軍人事手帳(?)』