水無月 (睦月型駆逐艦)
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艦歴 | |
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建造所 | 浦賀船渠 |
起工 | 1925年3月24日 |
進水 | 1926年5月25日 |
竣工 | 1927年3月22日(第二十八号駆逐艦) |
喪失 | 1944年6月6日 |
除籍 | 1944年8月10日 |
要目(計画) | |
排水量 | 基準:1,315トン、公試:1,445トン |
全長 | 102.72m |
全幅 | 9.16m |
吃水 | 2.96m |
機関 | ロ号艦本式缶4基 艦本式タービン2基 2軸、38,500馬力 |
速力 | 37.25ノット |
航続距離 | 14ノットで4,000海里 |
燃料 | 重油450トン |
乗員 | 154名 |
兵装(新造時) | 45口径12cm単装砲 4基4門 7.7mm機銃 I×2 61cm3連装魚雷発射管 2基6門 (八年式魚雷12本) 爆雷18個 機雷もしくは掃海具1式 |
水無月(みなづき)は、大日本帝国海軍の駆逐艦。睦月型駆逐艦の6番艦である。艦名は旧暦の6月のこと。同名艦に初代神風型駆逐艦の「水無月」がある為、こちらは「水無月 (2代)」や「水無月II」などとも表記される。
目次 |
[編集] 艦歴
1923年(大正12年)度計画艦。浦賀船渠で建造され1927年(昭和2年)3月22日に竣工、佐世保鎮守府に在籍した。最初は「第二十八号駆逐艦」という艦名であり、一等駆逐艦に類別され、翌年8月1日に「水無月」と改名された。
太平洋戦争開戦時には、第3艦隊第5水雷戦隊第22駆逐隊に所属、緒戦のフィリピン攻略戦やジャワ島攻略戦、バタビア沖海戦、クリスマス島攻略戦などに参加する。その後はジャワ海方面で船団護衛に従事した。1942年(昭和17年)8月18日に一旦佐世保港へ帰港、整備をする。その後は内地と台湾やパラオ間の船団護衛に従事する。
1943年(昭和18年)2月以降はラバウル方面へ進出し、同方面で輸送任務に就く。7月20日にショートランドで爆撃を受け損傷し、呉海軍工廠で修理する。修理後もラバウル方面へ進出、同方面で輸送作戦に従事した。
1944年(昭和19年)2月から内南洋方面で船団護衛任務に就き、5月からパラオ方面で船団護衛に従事。6月6日、ダバオから給油船「興川丸」を護衛の途中、ダバオ南東海上でアメリカ軍の潜水艦「ハーダー」(USS Harder, SS-257)の雷撃を受け沈没し、8月10日に除籍された。
[編集] 歴代艦長
[編集] 艤装員長
- 古賀七三郎 中佐(1926年12月1日 -)
[編集] 艦長
- 古賀七三郎 中佐(1927年3月22日 -)
- 山田定男 中佐(1927年12月1日 -)
- 益田康彦 少佐(1930年12月1日 -)
- 成田忠良 少佐(1931年12月1日 -)
- 松原博 少佐(1933年11月15日 -)(兼)[1]
- 小川莚喜 少佐(1934年4月1日 -)
- 成富光 少佐(1935年12月2日 -)
- 金田清之 少佐(1937年12月1日 -)
- 古賀弥周次 少佐(1938年1月8日 -)
- 久保木英雄 少佐(1938年10月20日 -)
- 平山敏夫 少佐(1941年9月20日 -)
- 福山強 少佐(1942年9月25日 -)
- 磯部慶二 大尉(1943年10月25日 - 1944年6月6日戦死)
[編集] 同型艦
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睦月 - 如月 - 弥生 [II] - 卯月 [II] - 皐月 [II] - 水無月 [II] - 文月 [II] - 長月 [II] - 菊月 [II] - 三日月 [II] - 望月 - 夕月 |
[編集] 参考文献
- 海軍歴史保存会『日本海軍史 第7巻』(第一法規出版、1995年)
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第10巻 駆逐艦I』(光人社、1990年) ISBN 4-7698-0460-1
- 日本造船学会『昭和造船史 第1巻』(原書房、1981年、第3刷)ISBN 4-562-00302-2
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。
- 『日本海軍人事手帳(?)』
[編集] 脚注
- ^ 『日本海軍人事手帳(?)』による