鍼灸
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鍼灸(しんきゅう)とは、身体の特定の部位に鍼や灸を用いて皮膚または経絡に刺激を与えることで、病気を治す伝統中国医学の治療法をいう。日本において鍼灸を業として医業類似行為を行う場合は「はり師」と「きゅう師」の国家資格を鍼灸養成施設で取得する必要がある。「医師」がおこなう鍼灸は医業となる。
なお、鍼は必ずしも人体内に刺すものではなく、皮膚をこするだけのものや押すだけのものも存在する。
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[編集] 歴史
[編集] 中国
[編集] 古代~中古
鍼灸の発生起源は詳しくは分かっていないが、戦国時代には灸はすでに用いられていた。馬王堆から発見された医書は、灸に基づいており、鍼による治療法はない。一方、現存最古の医書『黄帝内経』では鍼治療にもとづいて書かれており、前漢中期頃に灸から鍼への理論的確立がなされたと考えられる。『黄帝内経』の『素問』の異法方宜論(12)では鍼灸、按摩の起源が記されているが真偽の程は定かではない。鍼灸の初期は疼痛部に対する処置であったが、陰陽五行思想と融合し、また経絡学説や臓象学などと結びつき、経穴に対して施術を行う形になっていった。
鍼灸は湯液や外科手術などと共に医家と呼ばれる人々が行っていた。有名な医家として『難経』を記したとされている扁鵲や三国時代に活躍した華佗、『鍼灸甲乙経』を編纂した皇甫謐などが居る。
[編集] 中世
宋代から元代は鍼灸を含め医学分野の充実が見られるが、金元医学の中心は主に湯液によるもので、元の滑寿は『難経本義』の中で「難経などの古い鍼灸書を捨てて、新しい湯液に走るのは薮医者である」と諭している。
[編集] 近代以降
1822年、清王朝は宮廷医院内の鍼灸科の廃止を宣言するなど西洋医学の流入と共に伝統中国医学の衰退が始まる。 中華民国時代、袁世凱は伝統中国医学を禁止しようとしたが強い反発にあう。
[編集] 現代
中国共産党の時代に中医を正規の医学として認可するまで中医廃止派と中医派の対立が続いた。やがて正規の医学として認可すると、逆に冷戦時代にはアメリカ合衆国やソ連を中心とする西洋文明に対抗し、東洋文明の価値を宣伝するべく鍼灸治療をメディアに紹介した。
改革開放の波に乗って市場経済社会主義を標榜するようになってからは、中国国内での鍼灸への評価は多様化しているが、一方では一種の「頭脳流出」ともいえる現象も起きていて、優秀な中医や鍼灸師がよりよい活動の場を中国国外に移住するケースもよく見受けられるようになった。
[編集] 日本
[編集] 前近代
日本では、鍼灸は遣隋使や遣唐使の伝来と共に伝わったと言われている。鍼灸の伝来と共に鍼灸は律令制度に取り入れられて針博士が任命され、日本の医療の一部として浸透し始める。丹波康頼の『医心方』には鍼灸の条文が記載されているが、鍼の使用法については外科的なものばかりであり、現代のような金元明医学の鍼法とは大きく異なる。灸法についても、現在のような経脈(経絡)を意識したツボ(経穴)の使用法ではなく、特効穴的な選穴か、鍼と同じく外科的な使用法である。これらは『千金方』や『外台秘要』などの影響であり、隋、唐代医学そのものと言って過言ではない。ツボや経脈が現在のような使用法に至るには、明代医学の伝来を待つしかなかった。
室町時代から江戸時代に入って日本鍼灸は大きく発展した。『鍼道秘訣集』の御薗夢分斎、打鍼術を発明した息子の御薗意斎、『素問諺解』、『難経本義諺解』、『十四経発揮和語抄』など中国の文献の解釈本を多く出版した岡本一抱など、この時代は多くの人物を輩出したが、特に杉山和一の功績は大きい。杉山和一の考案した管鍼法は日本の主流の技法となっている。又、盲人であった和一は盲人の鍼灸術修得のため鍼治学問所を設立した。
[編集] 近代
明治時代になると、近代西洋文化の流入に伴い、明治政府が西洋医学の導入と共に漢方医学の排斥を進めた。鍼灸もその例に漏れず、明治時代から大正時代にかけて鍼灸は衰退をたどった。
明治から昭和初期にかけて鍼灸の医学的研究が成熟を迎えるようになり、大久保適斎は鍼灸刺激は交感神経を介して心臓に影響が及ぶということを提唱し、三浦謹之助は鍼治についての研究を行い、後藤道雄はヘッド帯を用いての治療を行った。長浜善夫と丸山昌郎は鍼の響きよるものと考えた。石川太刀雄は皮電点を、中谷義雄は良導点を、小野寺直助は圧診点を、成田夬助は擦診点を、藤田六朗は丘疹点を提唱した。また、芹澤勝助は鍼灸師としてはじめて医学博士を取得した。
昭和に入ってから第二次世界大戦やGHQの統制で鍼灸の存続が危ぶまれたが、医学博士石川日出鶴丸や全国の鍼灸師の働きにより昭和22年(1947年)12月20日、「あん摩、はり、きゅう、柔道整復等営業法」が公布される。
また、鍼灸の衰退に対して復興運動が昭和初期から起こりはじめた。「古典に還れ」と提唱した柳谷素霊とその元に集まった岡部素道、井上恵理、本間祥白、福島弘道などが経絡治療を体系化した。他にも澤田流太極療法を考案した澤田健、江戸時代の本郷正豊著『鍼灸重宝記』の内容を治療法の核としていた八木下勝之助、小児はりの藤井秀二、皮内鍼の赤羽幸兵衛、『名家灸選釈義』を著し、深谷灸法を確立した深谷伊三郎、その弟子で『図説深谷灸法』を著した入江靖二、『灸治療概説』を著した根井養智、『鍼の道を尋ねて』の著者であり鍼灸の神様と呼ばれた馬場白光などが古典を元に鍼灸の復興に力を注いだ。
[編集] 現代
昭和58年(1983年)、鍼灸を専門に研究する初の四年制大学である明治鍼灸大学が開学した。
昭和63年(1988年)、「あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師等に関する法律」の改正により、知事免許であった資格が国家資格となった。
平成3年(1991年)、鍼灸医学を研究する初の大学院修士課程が、平成6年(1994年)、大学院博士課程が明治鍼灸大学に設置され、平成9年(1997年)、世界初の博士(鍼灸学)が誕生した。