金鍾泌
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金鍾泌 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 김종필 |
漢字: | 金鍾泌 |
平仮名: (日本語読み仮名) |
きん・しょうひつ |
片仮名: (現地語読み仮名) |
キム・ジョンピル |
ラテン文字転写: | Gim Jong-pil/Kim Chong-p'il |
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金 鍾泌(キム・ジョンピル、1926年1月7日 - )は、大韓民国の政治家。忠清南道扶余郡出身。号は雲庭(ウンジョン、운정)。金泳三・金大中とともに韓国政治史上に三金時代を築いた。
5・16軍事クーデターの中心人物であり朴正煕政権誕生の立役者だった。以降、要職を歴任。朴正煕暗殺以降は議会政党指導者として有力政治家でありつづけた。金大中との連合により金大中政権を誕生させ、そこでも首相となった。
妻は朴正熙の姪・朴栄玉(パク・ヨンオク、박영옥)。愛称はJPK。韓国のマスコミがJFKをもじってつけたもの。日本人記者との食事会の会話の中で、「ならぬ堪忍、するが堪忍」という浄土宗の格言を発したことがある。
子供の頃は、大の読書好きで、特に菊池寛の小説が好きだったという。その事から、一時は内地の中央大学への進学を夢見て、1944年に単身内地へ渡った事がある。しかし、内地は戦況の悪化に伴う深刻な食糧不足に苛まれており、「どうせ死ぬなら故郷で死にたい」と朝鮮半島へ戻り、ソウル大学へ進学したというエピソードがある(五味洋治『あなたはどうして韓国へ来たんですか?』より)。
[編集] 略歴
- 1947年 国立ソウル大学校師範大学教育学部修了
- 1949年 陸軍士官学校8期卒業.
- 1958年 陸軍情報参謀部企画課長
- 1961年 朴正煕と5・16軍事クーデターを主導し、初代中央情報部長に就任
- 1962年 日本の大平正芳外相との会談で、韓国側の対日請求権を「無償3億ドル、有償2億ドルおよび民間信用供与」を提供する経済協力方式で合意に至る(金・大平メモ)。
- 1963年 陸軍准将に予備役編入して政治に参加、忠清南道扶余で第6代国会議員に当選。同年共和党議長に就任
- 1968年 3選改憲反対と係わる共和党内の汚職事件ですべての公職を辞退し政界引退
- 1971年 大統領選挙を控えて共和党副総裁で政界に復帰し、国務総理(~1975年)
- 1979年 朴正煕大統領暗殺事件により共和党総裁に推戴
- 1980年 共和党大統領候補で出馬準備中、全斗煥・盧泰愚など新軍部により自宅軟禁
- 1987年 9月政界再復帰宣言後、新民主共和党を創党,大統領候補に出馬したが落選
- 1990年 執権与党である民主正義党・統一民主党との内閣制改憲に合意し、3党合同で民主自由党を結成、最高委員就任
- 1992年 金泳三大統領当選に貢献し、民主自由党代表最高委員に就任
- 1995年 民主自由党内世代交代論に反発、脱党後自由民主連合を創党
- 1997年 12月第15代大統領選挙で金大中・朴泰俊といわゆるDJP連帯を通じて金大中の大統領当選に貢献した.
- 1998年 新政治国民会議・自由民主連合共同政権の国務総理(~2000年)
- 2000年 韓日議員連盟会長
- 2001年 自由民主連合総裁
- 2002年 サッカーワールドカップ国会議員連盟会長などを務めた.
- 2004年 総選挙で落選し、自由民主連合も惨敗したため、4月19日に政界引退を表明。
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